「ほかの禁じられた呪文を知っている者はいるか?」

 そろりと、ベティの手が挙がった。いつになく元気のない態度に、リンは少し驚いた。普段ならもっと自信満々に挙手をするのに。

「何かね?」

「『磔の呪文』」

「正解だ」

 囁き声がベティの口から出てきた。ムーディはベティを一瞥して頷いた。ガラス瓶から二匹目のクモが取り出される。その間も「魔法の目」は、やはりというか、なぜかリンを見つめたままだった。

 ムーディはクモに肥大呪文を施した。クモが膨れ上がり、タランチュラよりも大きくなる。ベティが椅子を後ろに引き、ムーディの机から可能な限り遠ざかった。ハンナとスーザンも思わず倣っていた。

クルーシオ!

 そうこうしているうちに、ムーディがクモに呪文をかけた。クモは脚を胴体側に折り曲げてひっくり返り、七転八倒して、わなわなと痙攣し始めた。クモが声を持っているとしたら、苦痛に悲鳴を上げているだろう。

「もうやめてっ!」

 突然、ベティが叫んだ。金切り声に反応して、ムーディは杖をクモから離した。リンの隣で、ハンナが息を吐き出した。どうやら息を止めていたらしい。荒く肩で息をする彼女の顔色は、ひどく青白い。

 ほかの生徒も、とくに女子生徒を中心に、気分を悪くしていた。ベティは胸を押さえ、スーザンは片方の拳をもう片手で握り締め、アーニーは、片手で顔の下半分を覆い、いまや目を瞑っていた。ジャスティンは、ただじっと、青白い顔でクモを凝視している。

 ハッフルパフには、ほかの寮に比べて、温厚で平和的な生徒が多い。彼らには磔にされるクモは衝撃的すぎたようだ。

 ムーディはクモを元の大きさに戻して、瓶の中に帰した。クモはまだ痙攣していて、おぼつかない足取りだった。

「苦痛だ。拷問に使われるような苦痛。『磔の呪文』が使えれば『親指締め』もナイフも必要ない……これも、かつて盛んに行われた」

 教室内の面々の様子を「魔法の目」で窺いながら、ムーディは言った。

「大丈夫か、進めるぞ。ほかの呪文を知っている者は? ヨシノ、どうだ?」

 まったく「大丈夫」ではない状態を無視して、ムーディは授業を続けた。誰も何も言えない状況でも、挙手がないなら指名するというスタイルで済ませる始末だ。

 リンは教室を見渡した。みんな「三番目のクモはどうなるんだ」と考えている様子だった。何人かは、目を閉じて祈るような仕草をしている。

「……死の呪い。『アバダ ケダブラ』」

 明るい青の瞳を見つめて、リンは静かに言った。「死」という単語に、生徒たちが身体を竦ませる。ムーディはひん曲がった口をさらに曲げた。

「左様……最後にして最悪の呪文だ」

 三番目のクモは、自分の身に何が起こるか本能で悟ったらしい。ムーディが瓶に手を突っ込んだとき、クモは必死に抵抗した。しかし捕らえられ、机の上に置かれた。

 そこでも最後の抵抗を見せ、クモは机の端の方へと懸命に走る。ムーディは無造作に杖を振り上げた。

アバダ ケダブラ!

 目も眩むような緑の閃光が走った。それから、目に見えない大きなものが宙に舞い上がるような、グォーッという音。

 瞬き一つの間に、クモは仰向けにひっくり返っていた。なんの傷もない。しかし、紛れもなく、死んでいた。

 ハンナを筆頭に、何人もの生徒が悲鳴を上げた。そうでなければ声も忘れたように硬直し、それでもなければ事態についていけないように呆然としていた。

 リンは、すっと息を詰めて、じっとクモを見つめ、目を閉じた。氷塊が背筋を滑り落ちるような感覚がする。チクリと、いつの間にか握り締めていた手の平に、鈍い痛みが走った。

「……気持ちのよいものではない。しかも、反対呪文は存在しない。防ぎようがない。これを受けて生き残った者は、ただ一人。おまえたちの同級生の一人だけだ」

 死んだクモを床へと払い落として、ムーディは言った。リンが目を開けると、明るい青と目が合う。だが、今度は向こうが目を逸らした。

「さて、反対呪文がないなら、なぜおまえたちに見せたりするのか? それは、おまえたちが知っておかなければならないからだ。最悪の事態がどういうものか、おまえたちは味わっておかなければならん。せいぜい、そんなものと向き合うような目に遭わぬようにすることだ。油断大敵!

 座右の銘らしきものを再び叫んだあと、ムーディは説明を続けた。

 実演してみせた「アバダ ケダブラ」「服従の呪文」「磔の呪文」の三つが「許されざる呪文」と呼ばれること。人間に対して一つでも使用すれば、アズカバンの終身刑に値すること。

「おまえたちが立ち向かうのは、こういうものなのだ。こういうものに対する戦い方を、おまえたちは知らねばならん。わしが教えていく。備えが必要だ。武装が必要だ。しかし、なによりもまず、常に、絶えず、警戒し続ける訓練が必要だ……」

 それからの授業は、「許されざる呪文」のそれぞれについて、ノートを取ることに終始した。ベルが鳴りってムーディが授業終了を告げるまで、誰も何も喋らなかった。



「……いままでと違うタイプの先生だね」

 六人で廊下を歩きながら、リンが言った。ちょうどそのとき、「すごかったな」「あっという間に死んじゃった!」「ほんと、おもしろいくらい、コロッとね」という妙な興奮に満ちた会話が、リンたちの後ろからやってきた。

「ジャスティン、大丈夫?」

 不意にスーザンが聞いた。ジャスティンは素っ気なく「なにが?」とだけ返した。スーザンは心配そうな顔で、慎重に言葉を選んで口にしていく。

「だって、あなた、授業の途中からずっと、すごく顔色が悪いから……」

「べつに……ただ、ちょっと、」

「まったくおもしろくない授業だったね」

「……はい」

 遮るようにリンが言った。ジャスティンは、力なく、しかしどこか安心した様子で頷いた。リンは興奮しているクラスメイトを一瞥しつつ、口を開いた。

「外傷もなく、一瞬で時間を止める……まるで、バジリスクの眼光みたいだった」

「……ええ。僕も、思わず思い出してしまいました」

 ほかの四人がハッと息を呑み、微妙な沈黙が流れた。数秒した後、溜め息をついたリンが、ジャスティンに「大丈夫。君が何かに襲われたら、今度こそ全力で助けに行くから」と声をかけ、その場を収めた。

 シリアスから一転してハイテンションで纏わりついてくるジャスティンは、仕方がないので許容した。

4-26. 許されざる呪文
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