筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
街灯の明かりも消える頃。
店の裏口から誰よりも先に飛び出して、裏口から建物の角をまわり一番近くにある消火栓に向けて走る。
はぁ、と息をつけば白い蒸気が暗い視界の中で四散する。
くゆる白いもやの向こうにいる。消火栓の前にたたずむその人は、変わらぬ表情に少しだけ赤い鼻先をしていた。
「お待たせしました…」
自分の声が思ったよりも大きく人のない街に響いて、まるで遣いから帰った子供のような意気込んだ自分の声が間抜けに思える。
「行こう」
出された手に、自分の手を添えるとギュッと握り込まれて、スタスタと歩き出す。
手を握るのなんて初めてじゃないはずなのに、向かうのが馴染みのおでん屋台じゃないことが酷く少女を動揺させている。
喫茶マグノリアのある界隈はやはり富裕層向けの洋装屋や商店、理髪屋が多く、そろって煉瓦作りで綺麗に舗装された道やガス灯が等間隔に並んでいる。
いつもなら少し外れの自分の下宿に戻るだけの生活を繰り返していただけに、見るからに造りの豪奢になって行く街並みに無意識に肩に力が入った。
見えてきた建物は、噂に名高い政治家御用達のホテル。
平等院をモチーフにブロンズ色の瓦葺きの屋根。乳白色の大谷石造の四階建ての荘厳な洋館が、広く、水草ひとつない池の後ろに堂々と佇んでいる。
こぼれている明かりは爛々としていて、入る前からわかるほどの、あまりに贅沢なホテルに気圧されてしまいすっかり足が止まってしまった。
「どうした……」
「あの、冨岡さん……私」
爛々と質の良いガラス窓からこぼれている光が、冨岡の背後で星のように煌めいている。
自分の安物の木綿の簡単なシャツに、焦げ茶色の麻のスカートが悲しい。
「私、とっても粗末な洋服で今…、靴だって履き古してて」
「………なんだ、そんなことか」
改めて握られていた手を引かれ、指先を絡めとられる。
ついて行くしかない自分の恥ずかしさを他所に、冨岡はいつもより嬉しそうに見えた。
「……俺の部屋に来るのが嫌じゃないのなら、どうだっていい」
ずんずんと進んでいく。いたく大事そうに握ってくれるから、不思議と先程までの不安は消えてしまっていた。
吹き抜けの高い天井のエントランスを抜け、まだ真新しく、ガシャガシャと歯車の大きな音と揺れの強いエレベーターの中でも、彼は少女の手をしっかりと握っている。
本当は何があるのか。なんてことを考える余裕もないまま実に簡単に
少女は清潔なシーツの張られた部屋の中で馬鹿みたいに突っ立っていた。
ガラス窓の向こうはすっかり暗いので、もはや木枠で仕切られた鏡のようになったそこには、大きなベットと絹張りのスツール。小さなサイドテーブル。
湯を用意させたらしい冨岡さんは、片手でー陶器の茶器が乗せられたお盆を持って背後からこちらに向かってくる。
「あ……私、やります!」
慌てて受け取りサイドテーブルの上で自分が呆けているうちに頼んだらしい紅茶を入れる。
コポコポと器の中で滑る紅の渦を見ていると少しだけ落ち着いてきた。
「頼めばボーイの方が淹れてくれるのに」
「……気まずいだろう、ここで知らない人間に茶を入れてもらうのは」
その口振りが非常に罰が悪そうで
本当にこの人は、なんでもないような表情をしているくせにこんなに可愛いのだろう。
「確かに、私もどんな顔をしていいのかわからないです」
クスリと笑うと、少女を見下ろしていた冨岡の目尻が少しだけ赤くなる。
左手が無意識に唇にかかった少女の細い髪をすくいあげて小さな耳にかけた。
やはり彼女がこうして笑っているのが好きだ。
初めて救い上げて、抱き上げた時の怯え切った子供だったあの子がこうしてふんわりと華が咲くように俯いて笑うのが好きだ。
「冨岡さん、えっと」
戸惑ったような胡桃色の瞳が自分を見つめ返しているのに気付いて、そういえばまだ本来の用事を済ませていないことを思い出した。
渡したいものがあったのだ。
自分のたもとから、コロリとした硬い木の塊を引っ張り出す。
根付けと呼ばれるそれは欅から掘り上げた熊だ。
出会ったばかりの頃の少女が怯えながら握り込んで、しばらくずっとすがるように持っていた精巧な細く小さな金属の鎖に繋がれた熊の彫り物は
いつの間にかなくなってしまったようで、それを話す少女のとても悲しい表情が忘れられなかった。
目を白黒させながらそれを両手で受け取った少女はしげしげとそれを見下ろしていた。
「くまの…根付け…?」
「同じものは無理だが、北に行く用事があったからそこの者に彫ってもらった」
「わざわざ………本当に…!?」
あの間抜けな丸いフォルムの、変わった形の熊を細かく指示したつもりだったがやはりどこかいかつい彫り物らしさのある熊は正直言って似ているとはいえないだろう。
「……とっても嬉しいです、可愛い熊……この形冨岡さんが?」
「…………あまりうまく伝わらなかったが」
それでも、冨岡が足らない言葉で職人にこれを作って欲しいと頼む姿を想像すると胸が熱くなる。
少女が持っていた熊のキーホルダー。最近…いつのまにか無くしてしまったそれを覚えていてくれて、こんなふうに新しく渡してもらえるとは露ほども思っていなかった。
「………ありがとうございます、大事にします」
両手の中で大事に握り込んでお礼をいう。
「…喜んでもらえたなら、よかった」
「ふふっ…冨岡さん、こんなところに呼ぶから、びっくりしちゃった」
「………遅いし泊まっていてもいいぞ。暖かくて清潔なシーツで寝てみたいと言っていただろう」
「……………そうだけど」
「何もしない」
「ベットひとつですけど…」
「俺と行動してた時は一緒に寝ていただろう」
「……それ、野宿じゃないですか」
こともなげに言われると、あまりにも子供扱いされているようで不本意だ。
そうなると、意地でもここで寝てやろうとおもう。
そっちがそのつもりなら、自分だって便乗してやる。
自分だって、何もないなら冨岡さんの寝息に揺れる睫毛を見ていたい。
「……じゃあお風呂入ってきます」
「寝巻きは備え付けのがあるぞ」
「使わせていただきます」
そう言い切った少女がバスルームに消えたのを確認して、冨岡は少女の唇をかすめた自分の指先をじっと見つめた。
どこからきたのか思い出せないと言った彼女を拾って3年。
あっという間に一人での生活を作り上げてしまった少女は今やすっかり大人の顔をしている。
目新しい洋装の彼女が盆を持ってあの喫茶店で動き回るのを見ると、いきいきとした姿に安心すると同時にずっと大きい不安が湧き上がってくる。
(また、俺とくらしてくれないだろうか)
気が強くてよく喋り、おおよそ他の女子のように振る舞わない彼女を面白がっている客が大勢いることくらいあそこに座っていればわかる。
彼女が自分で手にれた世界に、自分がいないことが辛い。
ずっと歳の離れた、こんな男が情けなく通い込むしか君の顔を見れない。
そういえば彼女はどんな顔をするだろうか。
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