たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
あの頃時翔少女は300年先の世で中学三年生を終えようとしていた。
父は当時、まだ歴史研究の中でも新しい派遣員の資格を持った考古学者だった。
数年に一度。朝過去に出かけて夜に数年歳をとって帰ってくる。
研究所で派遣の度に渡される、数ミリ単位で車が買えそうな値段の薬物を注射して数日眠った後、過去に行く前と同じ歳の父に戻っていつも通り朝刊を読む父は、やはり周りの人間とは違う独特の空気を持った穏やかな人だった。
父の仕事に憧れて、毎年数人しか枠のない派遣員の専門学校に通った少女は、複雑そうに笑う父が、どうして喜んでくれないのかと腹が立った。
………それもこうなってしまっては、ただ懐かしい。
とにかく運命のあの日。
ついに遠くの専門学校に行く引っ越しの荷物を全て詰め終え、書物でびっしりの父の部屋にもさよならを言おうと部屋に入ったあの時。
昼の陽光に照らされて、キラリと輝いた掌にすっぽりとおさまる空豆の形をしたその機械の誘惑に、おもわず手に取ってしまったのだ。
日付を表示する機械巻きの目盛りと、電源と磁場を発生させるためのボタン。
セットで持つ500円玉程の大きさでシリコンに似た手触りの平たい白い丸は、現代に生存を知らせるために毎日押すリモコン。
派遣員の特集やネットで見た、厳しい試験を超えなければ手にできないそれを持って仕舞えば、次に湧いてくる誘惑にあがらうのは難しかった。
電源、電源だけ、入れるだけ。
そうしてシンプルなその機械の電源を入れたその時、機械から発せられた予想外の振動と発熱に、思わず落としてしまったのだ。
強烈な閃光と、めまい。圧縮されるような気圧と自分が解かれるような不気味な感覚の後には、もういくら後悔しても無意味だった。
見知らぬ時代で、少女は一人だった。
ジーンズにパーカー。原因の機械を持って夜の山の中にたったひとり。
ひとしきり泣いて
泣きながら父から聞いた時間移動時の遭難マニュアル通り、民家から干している衣類を盗み……
やるべきことは知識としてあるはずなのに、こみ上げてくるものを抑えることなんかできなくて、ただ山道に蹲って延々と泣いていた。
これ以上ひどいことは起こらない。そう思っていたのに……
それよりもひどいことはすぐに起きた。
今まで見たことのない恐ろしい…人に似た生き物に追いかけられたのだ。
泥と血と涙でグシャグシャになった少女の視界で最後に映って、そして少女の命を繋いでくれた人こそ、冨岡義勇その人だ。
気絶した汚い自分を背負ったその美しい人は、自分の屋敷に招き入れてくれ、自分が正気を取り戻し一人で出て行くまでただ見守ってくれた。
そうして今も、決して近くはない街だというのに、彼は時折やってきてくれる。
人の話し声と、時折グラス同士がぶつかる音。
煙草の煙で少し柔らかくなったオレンジ色の洋燈の灯りが白いクロスを橙色に染めている。
今月の料理の名前を覚えて給仕の度に少し付け加えたり、乞われればお勧めの品の話をする。
2、3雑談を交えてあわよくばチップを貰ったり。料理も売りにしているだけあって、注文はよく入るのでかなり忙しいが、なるべくゆとりがあるように見せるためわざと雑談する。
適当な相槌と会話を切る技術ばかりがあがっている気がするが、あまり話し込むと料理が台無しになってしまう。
安くはないカフェーの雰囲気はいつも落ち着いていて、笑い声はあるが馬鹿騒ぎをする者はいない。
鈍い金色のお盆に一皿乗った鮭のムニエルを手に
奥にあるブース席に行けば、赤い天鵞絨のソファーの背から
少し青味がかかった黒髪がチラリと覗いて胸が高鳴った。
わざと一度足を止めて、深呼吸。
めいっぱい大人らしい声を出しながらテーブルの前に立った。
「お待たせしました。鮭のムニエルでございます。今日のはとても脂の舌触りが柔らかいですよ」
指先を揃えて静かにテーブルに置くと、少しだけ皿を回して飾りが正面にくるように整える。
姿勢を直すと、紺碧の瞳がゆっくりとこちらに向けられた。
さらりとした前髪が通った鼻の横をかすめて、仄暗い洋燈のオレンジを映した陶磁のような肌は女の自分よりも透き通っていて羨ましいほどだ。
つんとした美貌が自分を見てふっと緩められたのを感じて、思わず胸の前で抱えている固い盆の縁を握り込む。
「変わりないのか?」
「はい、元気にやってます、いつも通りですよ」
「そうか」
「貸してください、やりますよ」
相変わらず言葉少ない彼が左手でフォークを握ったのを見て、いつも通り隣に座ってムニエルをナイフで一口大に切る。
いつも片腕で食事をし慣れているはずだが、いつぞや忙しくて冨岡にサーブしかできなかった夜。左手で彼が次のテーブルへ急ぐ少女の手首をはしと掴んで「切り分けてくれ」と頼んでから、なんとなく毎回拒否されない限りこうしている。
冨岡さんの着物からは相変わらず艶のある白檀の香りがする。
かちゃかちゃと皿とフォークのぶつかる音が響いて、取り分けてから空になったグラスに水を注いでやる。
やるべきサービスが全てそこをついた頃、冨岡がぽつりと溢す。
「今日は何時に上がる?」
「今日は遅番なので、12時には…」
「送って行く」
「……いつものおでん屋さん、連れてってくれるんですか?」
「……………いや」
一瞬迷うように揺らいだ彼の瞳が再び少女を捕まえる。
「……もうすぐ18だろう、渡したいものがある。宿まで付き合ってくれるか」
「あ……っと」
「心配するようなことはしない」
わかりやすく動揺したことを悟られて罰が悪くなる。
はいと返事をするより先に、照れ臭さと焦りが買ってしまって、返事もそぞろに踵を返し。まるで逃げるようにキッチンへ駆けた。
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