逢ふ事の 絶えてしなくは 中々に ひとをも身をも 恨みざらまし


「ちょっと、祥代、いくらなんでも寝過ぎよ。今日も昼には仕事なんだから」


朝の買い物を終え下宿に帰ると、六畳の和室に敷かれた布団の上で、同居している同僚が布団の隙間から寒そうな足を突き出してこんこんと眠っていた。
隙間風は入れど窓のないこの部屋は夏はたまらないが、冬場は少しの湯たんぽでしっかり暖が取れる。
昼夜時の流れのわからなくなる元納戸のこの部屋では、少し気を抜くと時の流れが分からなくなってしまう。

女二人の小さな部屋は、鏡台の上の賑やかな化粧品や、無理矢理渡した紐にかけられた着物や洋服が不規則に並んで雑然としている。
派手な洋服が好きな祥代の洋服は大きく嵩張り、部屋の中に鮮やかな雲を作っているようだ。

「……やっぱり窓のない部屋はだめよ、起きた気がしないもん」
「最初に時計を買ったでしょ、ほら、支度しなきゃ……」

のそのそと起き上がった祥代は洋服に負けない華やかな顔立ちを歪めると面倒そうに目元を擦って立ち上がった。

「家賃ってもう渡したわよね?」
「今朝女将さんに渡してきた。また男を連れ込まないようにって釘を刺されたよ、本当失礼な人」
「仕方ないわよぉ、私達のこと如何わしいカフェーで働いてるとおもってるのよ。家賃さえ渡せば追い出されないんだからいいじゃない」
「………世間知らずに漬け込んで向こうが決めたずっと高い家賃だけどね」

あの頃は本当、私達いいカモだったでしょうね。
と何がおかしいのかたっぷりとした睫毛を揺らして笑う祥代は、来たばかりのセーターの形を整えて、自分で作ったらしいたっぷりとした裾の紺のロングスカートを身につけている。

子供の女二人を下宿させる人間が見つかっただけでも幸いとは言えるだろう。
あちこち断られようやく見つけたこの定食屋の二階は、とてもよい環境とはいえないが、寒さを凌ぐことはできる。
この環境の割にはうんと高い家賃と、男を連れ込まない、家賃は決して遅れない。という口約束だけで少女と祥代はここに留まっている。
鼻歌混じりに化粧をする祥代は店でも1番人気のある給仕で、たっぷりのチップをもらう稼ぎ頭だ。
有り難いことに少しばかり大目に家賃を出してくれる彼女と一緒に住めたのは幸運だった。

「準備で〜きた、今日の賄い何かな」
「今日は第二火曜だからビーフシチューじゃないかな」
「やった、給仕も楽だし贅沢ね!」
「そうね」

定食屋の仕込みの邪魔にならないようこっそりと裏口から外に出る。
裏口のすぐそばで瓶を片付けていた定食屋の下働きの青年が今日も変わらず、祥代を惚けたように見つめている。
それを尻目に通りに出ると、マグノリアに向かって二人で歩みを進める。

朝のうちに昨日渡された給金の残りを金に変え、今日の分の未来への…ボタンを押すだけの生存通信を送ってきた。
今日仕事が終わったらまた下宿の壁の穴の中に金とともにこっそりと隠そう。

この時代の通貨には価値はない。
出来るだけ金に変え戻った時に換金し、過ぎた時間分若返る薬を買うつもりだ。
とんでもなく高価なものだと聞いているが、実際の値段を知らなかったことが口惜しい。
あと一年でもう一度タイムスリップできるだけのエネルギーが溜まる。
4年という月日はいったい幾らになるのだろうか……。


「あ、わかったぁ」
「……?」

マグノリアの裏口、よく冷えたドアに手を触れると同時に祥代が素っ頓狂な、それでいて楽しそうな声を上げた。

背後を見ると悪戯っぽく笑った祥代と目が合う。

「今日が火曜だから難しい顔してるのね?………冨岡さんが来ないからでしょ?」
「なっ……そんなわけないでしょ、もっと別の考えごと!」
「よくいうわぁ、この間朝帰りしたくせに」
「それ、絶対他に言わないでよ」

扉を開けると温かい空気に混じってよく煮込んだデミグラスソースの匂いがした。
そうするとすっかりその話題に興味をなくした祥代がパタパタと軽やかな足取りで厨房へ走っていく。
分厚いコートを脱ぐと、仕事仕事。と少女は更衣室へ向かった。














所謂ランチの時間は、近くにある大学の影響かスーツで難しい話をする男性が多い。
この時代特有の倫理観なのか、きっと大学でもよい役職についているのだろうと思われる人間も、昼間に酒を注文することが多いことには驚いたものだ。

蜂蜜みたいに淡い色の洋酒に大きな氷を浮かべて、わいわいと賑やかに議論を交わすテーブルにウィスキーのグラスをサーブする。
熱心に喋っていた中の一人、壮年ほどの男が鼻の下の綺麗に整えた髭を指で撫ぜると、グラスを置いた少女を待っていたとばかりに捕まえ、同席していた他の男性に大きな声で話しかけた。

「見たまえ、君たち、彼女こそこの大正の世で働く職業婦人時翔少女女史だ」

面白がってそういう男は、雪村という学者で、いつも少女を捕まえては何やら言葉遊びを仕掛けてくる。
こちらも生意気な口を聞けば、それが面白いらしいこの男はひとしきりの問答の後にたんまりチップをくれるのだから断れない。
軽口の言い合いのようで少女自身も少しだけ楽しいものだから、ふざけて女史なんて言われても乗ってしまう。
こういう客はこの男だけではないが、どの客も余計にチップをくれるものだから少女の舌弁も冴え渡るというものだ。

「雪村先生、今日はなんのお話をされていたんですか?」
「うん、少女女史。今日はこの未婚の若者達と女性の貞操について話ていた」
「貞……まぁ、昼間からそういったお話を?」
「若者には大事なことだよ、皆妻の希望に貞淑で身持ちの硬い令嬢を望んでいるそうだよ」

嫌な話題の広げ方をするのはいつも通り。
ついてきたらしい見慣れない若者達も面白そうにこちらを見つめている。

「私、買い物が好きなんです」

そう言うと、テーブルの視線が一斉に自分に集まる

「今年は、いい襟巻きが欲しいんですの。前の襟巻きはすぐ抜けてしまうし、獣臭くて巻くと少し首が痒くなってしまって。……でも、この間のおやすみにデパートに行ったら、舶来品のとってもいい襟巻きがあったんですのよ、巻いても肌触りが良くて、滑した匂いもしないし毛色もとっても私の肌に合うんです」
「ほぉ、まさかおねだりがしたい訳じゃないだろう?」
「勿論。私思ったんですの、ものの善し悪しを知っている女性の方が、ずっと幸せになれるんじゃないかしら………肌に合わない物を使って合わなかったでは悲しいでしょう、男性だって、女性に選び抜かれて愛されたいんじゃないんですの?」
「つまり、君にとっての男性は襟巻きかな?」
「まさか!私は襟巻きのお話しかしてませんわ」

驚いた表情をして見せれば、愉快そうに笑った雪村に、思わずこちらもつられてしまう。

「君は稀代の悪妻になるのかな?」
「あら、悪妻を持てば哲学者になれますのよ」
「……………本当に面白い女給だね、ソクラテスを知っている女給は、ここにしかいないだろうね」
「ありがとうございます」
「それで、君の襟巻きは見つかったのかい?」
「まさか……!高い買い物ですもの、まだまだです。まずは巻けるだけの余裕がなくちゃ」
「流石丙午生まれの女だね、君と一緒になると本当に食い殺されそうだ」


丙午生まれの女は夫を食うというのはとんだ迷信だ。
ただの生まれの年に意味をつけただけのそれは60年に一度回ってくるとんだ迷惑で、この時代から自分の生まれを計算するとどうやらそういうことになるらしい。

(本当に面倒な時代ね……)

一礼して食事のオーダーを伝えるべく厨房へ踵を返す。



「君、少しいいだろうか」



よく通る。
けれど穏やかな声で呼び止められた。
自分が給仕を担当していないテーブルからの声かけに、どうすればいいか一瞬迷ったが、とりあえず用件だけ聞き担当に伝えようとニッコリ笑顔を貼りつけて振り返る。

赤の天鵞絨のソファーで片肘をつく、派手な金髪の男は片目でじっと少女を見つめていた。
獅子のように輝いている金髪に、左目の傷を隠そうともしないその男は、そのやけに強い眼光で値踏みするように少女の顔や服を眺めている。

数日前の夜に初めてやってきた客だ
と見た瞬間に思い出した。
周りの女給が、整った顔に外国人のような金髪、訳ありそうな片目の傷にきゃあきゃあと沸き立っていたのを覚えている。

「どうなさいましたか?」

正面に向き直り姿勢を正す。
男の視線がずっと斜め後ろ。熱く自論を語る学者のテーブルに移る。
先程まで少女がついていたテーブルだ。

「寛げないようでしたら、別のお座席をご用意致しますが…」
「いや、そうではない」

金紅の虹彩がチラリと光って、急にかちあった瞳の強さに思わずたじろいてしまいそうになる。
冨岡さんが無機物のような静謐な美しさだとすれば、この男の飾り金屏風のような…暴力的なまでの吸引力は嫌でも目についてしまう。

「君は毎日ここにいるのだろうか?」
「……女給の当番はお店から教えないよう言われています。みなさん通っていただいて、自然に把握して頂いている次第です」
「それは困る。俺は絶対に君に給仕してもらいたい」
「……………どうしてでしょうか、私のサービスを気に入って頂いた訳ではないですよね?」

顔を突き合わせたのだって初めてのはずだ。
わかりやすく警戒している少女にそれでも遠慮せず、スッと少女の目の前に握り拳を出すとチャラリ。と金属の鎖が擦れる音がした。
男の手の中からぶら下がっているのは間違いない。
いつの間にか無くしてしまっていた、現代から持ってきたあのキーホルダーだ。

「それ……!」
「先日この近くで拾ったのだが、君のだろうか」
「はい!!ッありがとうございます…」

受け取ろうと伸ばした手は空を切り、代わりに男の手がその手を絡めとる。
混乱する少女を他所に男はその視線を落とすと、堅い指先で少女の爪をそっと撫ぜた。

「本当に君のものだろうか、よくできた高価な細工だろう。嘘をついているとも言い切れない」
「は………?」

今まで経験したことのない…やけに艶っぽいその触り方に、思わず一歩下がってしまう。
男が手を離すと、握られていた手を胸の前で隠すように重ねた。

「……なんなんですか!?…不愉快です!」
「俺の名前は煉獄杏寿郎だ。きみは?」
「……………少女です」
「姓は?」
「……時翔」
「では少女、また来る。君のものだと思えれば返そうと思う」

必ず俺につくように。そう言って席を立った男は、最後に少女を見下ろすと心底楽しそうに片目で笑った。



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