これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

 





長く降り続く霙まじりの雨が、曇った窓の外の世界をつたい落ちていく。




外の寒さですぐに曇り
また新しいストーブの蒸気で真っ白になる店のガラス窓はいよいよやってくる厳しい季節の訪れを告げていた。

喫茶『マグノリア』
そのホールの真ん中で、しゅんしゅんと音がなるのではないかと思うほど赤くいこった石油ストーブは、最近店主がわざわざ外国から取り寄せてきたもので、客が入る前は専ら給仕の女子たちのたまり場になっている。
コーヒーとコロンの匂いが混ざり合うここはいわゆる喫茶店。

中二階のあるうんと天井の高いこの建物は、外観のレンガ作りの反して中は欅や胡桃の木の暗い木目の揃った木造りで、艶々と…建物と揃いの様に輝く美しい曲線の椅子やテーブル、ソファたちが何組も並べられている。
繊細なシルクの織物で貼ったソファや椅子の座面はふかふかとしていて、すわって見上げればちょうど中二階に向かい合う様にしてはられている、大きな木蓮の花々と藤の枝を描いたステンドグラスが光を差し込み、店内の昼は瑞々しく。夜は洋燈の明かりを受けて妖しく光っている。
品のいい珈琲カップや抽出の道具、洋酒の瓶が並んだカウンター席とうんと広いホール。少し外れにあるソファー付きのボックス席。中二階の、ほぼ一組しか入れない豪奢な座席と、かなり席数が多いが凝った内装のここは高級店に分類される喫茶店だ。

昼はよい身なりをした女性が。
夜は酒と珈琲と、凝った洋食を摘みながら煙草を燻らせる富裕層の男性が。
仕事やら芸術やらの話をすべく集っている。
フランスのサロンを意識して建てられたとオーナーが豪語していただけあり、巷に溢れるキャバクラ紛いの喫茶店とは一線を画している。

少女が初めてこの店の門を叩いた時、その和洋折衷の白く美しい外観に、中に入ると一転し艶々と暗く輝く木目造りに琥珀色の洋燈の輝く内装に思わずうっとりとした。

誂えの良いリボンブラウスに膝を隠すふわりとした黒のスカートに袖付きの白のエプロンの制服はなんとも上品で可愛らしい。

とどのつまり、少女にとっては理想の職場である。

少しだけかじかんだ指先が温まってきて、賄いの卵のないオムライスを同僚達とつつきながらこれか始まる夕方から夜にかけての仕事の話をする。
女が四人も集まれば、わいわいと賑やかで、時折高い笑い声がホールに響く。


「ねぇ少女、あんたももっと眉を細くすれば?」
「髪を切ってパーマをあてるのよ、きっと似合うと思うのに」

きゃあきゃあと少女の申し訳程度の整えた眉と、口紅、まぶたの上に薄く入れた紫のアイシャドウがお気に召さない様で、いつのまにかお勧めの白粉やクリームの話をしている。

「ほら、あんたのいい人が、今日きたらどうするのさ?」
「いい人って………冨岡さんは友達よ」
「ふぅん…十も離れた男の人がお友達、ね」

食べ終わった少女は背中まで伸ばした黒髪をひとつに纏めながら、同僚達の座るテーブルから離れる。
炊事場の裏、女給達の着替えるこじんまりとした小部屋にはいると、鏡の前で少しはげた口紅を塗り直す。

女給はこの時代、学のない女性でもうまくいけば事務仕事よりもうんと高い給金のもらえる仕事だ。
身元の確かではない自分でも、とんでもない無作法ものでなければ簡単に雇ってもらえる。

薄暗い小部屋の壁にかけられた自分の瞼の上の
ほのかな紫を少しだけ指先でなぞって、薄い瞼に馴染ませる。

両頬に少しだけ指先を添えて小さく笑ってみるも、思い出す冨岡さんの目の覚める様な涼やかな目元や、大した表情の違いはないはずなのに
いつだって洋燈の明かりで凛と輝いている美貌を思い出して沈んでしまう。

(今日は、きてくれるかな)

月水金は夜の当番なの。と言ってから時折ふらりと現れて、しまいの時間に外へ行こうと下手くそに誘ってくれるあの人を思い出すと勝手に頬が緩んでしまう。
特別な名前のついた関係ではないけれど、期待してしまう。

同僚に揶揄われるのは当たり前だ。
遅番の日はいつだって無意識に浮かれてしまう。

少しでも自分がよく見える様に顔まわりの髪を整えて、勝手にどきどきし始めた心臓を落ち着かせる様に胸に手を当てた。

この時代に来れてよかった。と思えるのは彼のおかげだ。そして同時に後悔もしている。





時翔少女はこの時代の人間ではない。
大正初期。この近代と旧代の慣習の入り混じる混沌とした時代より。300年さきからやってきた。


たった一人の異邦人である。




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