森の奥の大樹に、星が落ちてきたらしい。 どうしてだろう。 早く、早く、‘会いに’行かなくちゃ。 「……ゼッペ、ジュゼッペ!起きなさい!」 早朝の静寂を破る高いノックの音と、精一杯張り上げられた良く通る声。部屋の主は重い瞼を開け、半身を起こした。 「…………ううん、何だい、クレー……」 「良いから!支度して、玄関まで来て頂戴!」 「……何かあったのかい?」 扉越しに聞こえる同居人の声。その強い響きに、わずかに思考が覚醒する。昨日の晩も戸締りはきちんとしたはず、と良からぬ方向へ思考が傾き始める。その考えも、すぐに打ち破られた。 「お客さんよ!ヴィンフリート!貴方に用があるんですって」 「やあ、ごめんね。こんなに朝早くから」 クレーが熾してくれたらしい暖炉が、ぱちぱちと勢いを増し始めている。その前で暖を取っていたヴィンフリートが、柔らかな笑顔を向けた。急いできたのか、寒さのせいか、頬がほんわりと赤く染まっている。 「ううん、構わないさ!それで、どうしたんだい?」 シャツの袖ボタンを止めながら問いかけると、どこから話せば良いかなあ、と穏やかな返事が返ってくる。 「実はね、明け方から森がちょっとした騒ぎになっていて。君なら興味を持つかなあって思ったんだ」 「騒ぎ?」 ジュゼッペは小さく首を傾げ、自分よりわずかに背の高い相手に目を向けた。全てを懐深く受け入れる森では、「騒ぎ」などここ最近耳にしていない。 「森の奥に、大きな樹があるのは知っているかい?」 「えーと……レオリオズワルドの図書館じゃなくて?」 「ううん、確かに彼の家も大きいけれどね。同じくらいの大きさで、もっと奥さ」 その返答に、腕を組んで本格的に考え込む。どの樹だろう。仕事柄、あるいは息抜きに、森にも良く足を運んではいるものの、そのような樹は思い当たらない。レオリオズワルドの図書館ほどの大樹、となると数本しかないはずだが。 そう思いを巡らせているうちに、ふと、とある樹が脳裏をよぎった。 森の奥深くに堂々と佇み、冬でも豊かに葉を茂らせる、一本の不思議な大樹。 なぜ思い浮かんだのか、自分でもわからない。遠い昔に見た記憶なのか、はたまた。 「うん、多分わかったよ。…………久しぶりに、行ってみたいな」 ぽつり、と、唇から言葉が零れた。その言葉に、我ながら軽く驚く。 「本当かい?じゃあ、良かったら一緒に見に行こうか。詳しくは、歩きながら説明するよ」 友人の穏やかな目許が綻ぶ。その優しげな顔に、ふわりと淡い光が近づいた。 「あたしも行くわ。何だか面白そうじゃない」 いつの間に身支度を終えたのか、暖かそうなコートを抱えたクレーが、準備万端といった表情で頷く。 「……うん!じゃあ僕、コートを取ってくるよ!」 くるりと踵を返し、ジュゼッペは自室に向かって走り出した。 ――どうしてだろう、わくわくする。 ――何か素敵なことが起こりそうな、そんな予感だ。 「星が?」 森への道すがら、ヴィンフリートから発せられた言葉に、クレーが不思議そうな声を上げた。 「うん。俺はその光を見ていないけれど、飛び起きるくらい眩しかったらしいよ」 「で、その大樹の枝が折れていたから、星が落ちてきたってわけね。ふぅん、なかなかロマンティックじゃない」 さくりさくり、と二人の足が、枯草や小枝を踏みしめる。その斜め前を、クレーが歩調に合わせて飛ぶ。雪の残る静寂の森を、一行は奥へ奥へと進む。正面の空が、朝焼けを背に、薄紫に染まっていた。 「これがまた、大きな枝でね。太さは、両の手のひらに余るくらいなんだ。それでね、不思議なことには、……ああ、見えてきたね」 木々を抜けた瞬間、目の前に開けた空間が広がった。 どくん、と心臓が一度大きく跳ねる。 正面に聳え立つのは、腕を精一杯伸ばしても足りないような太さの、立派な大樹。朝焼けを正面から受け止めて、白みがかった青を背景に、燃えるように輝いている。 その前に、今は小さな人だかりができていた。 「やあ、なんだか賑やかになってきたなあ」 3人が近づくと、ふと輪の外にいた女性が振り返った。地面に着きそうな長い金の髪が、顔の動きに合わせて揺れ動く。 三歩ほど離れたところには、一人の青年が身じろぎもせず立っていた。 「あれ……チャオ、アンゼ!マンタイムも、久しぶり!」 「あら、ジュゼッペ様。皆様お揃いですのね」 「おはようございます」 この二人が一緒にいるとは、とジュゼッペが首をかしげていると、それに気づいたのかアンゼが口を開いた。 「昨晩、急に眩しい光が見えまして。わたくし一人では心細かったものですから、失礼を承知で、マンタイム様に着いて来ていただきましたの」 「いえ、私も教会の軒先を借りている身。一宿一飯の恩義を返したまでです」 頬に手を当てて、やや困ったような笑顔を浮かべるアンゼに、マンタイムがかっちりとした口調で返す。 「わたくしたち二人では手に余るので、トゥルーム様やラルウェル様にもお声掛けしたのですが、気づけばこれほどの方が来てくださって……」 少し離れたところでは、クレーとヴィンフリートが小さな少年や獣人の少年と話しているようだった。 「それで、おれが一人で見に来て、しるびおに教えて、それからびんふりーとに教えたんだ!ちっとも怖くなんてなかったんだからな!」 「そうだね、正直ハンス君が呼びに来てくれたから、俺もこのことを知ることができたんだ」 「あら、なかなかやるじゃない」 「うう、僕はすっごく怖かったよ……」 ぐるりと見回すと、見た事のある人影、初めて見かける人影、たくさんの顔が見える。その表情はみな、ほんの少しの不安や驚きと、それを覆うほどの好奇心、あるいは興味で輝いている。 ――早く。 ――早く、‘会いたい’。 人ごみをするりとすり抜け、ジュゼッペは中心を覗き込んだ。 「……これ、が?」 人々の視線を集めていたのは、優に人の背丈の倍はありそうな、一本の枝。 その直径は、掌を広げても尚余りある。細木の幹と言っても差支えないほどだ。 「おう、ピーノ。……しっかしまあ、でかい枝だよな。これ、全部薪にすりゃ、一冬は越せそうだぞ。…………おーい?どうした?」 隣に立つアルディオの声が、どこか遠く聞こえた。目も心も吸い寄せられたかのような、不思議な感覚。 耳元で鼓動が大きく聞こえた。 ふらり、と一歩を踏み込む。そう、まるで呼び寄せられたかのような。 「パパ!しっかり起きて歩きなさい!」 「だって、眠いよぉ……先生は……?」 「パパが準備している間に教会に行った!パパはマリアと歩くの!」 たっぷり数分は経っただろうか、泉の方角から近づいてくる声に、やっと意識が引き戻された。目を向けると、今にも立ったまま寝そうなラルウェルと、その肩に乗って叱咤するアマーリアの姿が見える。 「んー……アンゼさん、持ってきたよ」 目を擦りながら、ラルウェルが大きな鋸を掲げる。 「……え?この枝、伐っちゃうのかい!?」 思わず、大きな声を上げていた。アンゼが言いにくそうに口を開く。 「ここは開けていますし、日当たりも良いので、たまに子供たちを遊ばせますの。この枝があると、少々危険が伴うと思いまして……」 「なら、何かに使うってわけでもないんだよね?」 「うん、薪にしようと思っているんだけど……」 あくび混じりの、ラルウェルの声が届いた。それを聞いて、ジュゼッペは数度瞬きを繰り返した。澄んだ森の空気を、ゆっくり、深く吸い込む。 「…………この枝、僕が貰っても良いかい?」 場がしんと静まり返った。皆の耳目が集まる。それを受け止める大きな茶の瞳には、深い決意の色が宿っていた。珍しく見せる、強く真っ直ぐで、真剣な表情。それは職人としての意志なのか、あるいは。 「お願い。僕に任せてほしいんだ」 「…………ええ、ジュゼッペ様さえ宜しければ」 ややあってから、アンゼがおずおずと切り出した。 「活用していただけるのならば、その、是非に」 「本当かい?ありがとう!」 ジュゼッペの瞳がひときわ輝いた。大輪の花のような笑顔を咲かせた後、へにゃりと相好を崩す。普段の雰囲気が戻ってきた。 「……この枝で、人形を作るつもりなの?」 クレーがふわりと近づき、首を傾げる。 「うん。これだけ太さがあってしっかりしていれば、一体作れそうだなって」 「ふぅん……」 それ以上は何も言わず、クレーが枝に近寄った。ジュゼッペも地面に膝を突き、枝の様子を確かめる。 つい数時間前に折れたばかりで、生木であるはずの枝は、不思議と断面が乾いている。乾燥の時間を待たずに、すぐにでも彫り出せそうだ。それでいてどこか暖かみもある。 そっと指先を伸ばすと、触れた部分にきらりと光が走ったように見えた。 「…………こんにちは」 ぽつりと言葉が零れた。 「……ジュゼッペ?」 「あ、ううん!何でもないよ!」 膝をついたまま顔を上げると、森の住人達が三々五々散っていくのが見えた。その中を、二人の男性の影が近づいてくる。 「ジュゼッペ君、この枝全部だと、ちょっと運ぶのが大変じゃない?切るなら手伝うよ」 ラルウェルが隣にしゃがみ込み、枝を見つめる。それを聞いて、ジュゼッペも枝の全体を見渡した。自分の背丈を優に超すこの枝は、街中の工房で加工するには少々大きすぎる。 「うーん、確かに。……そうだな、このくらいあれば十分かな」 両手を目いっぱい広げ、その長さを示す。それを後ろから覗き込み、ヴィンフリートが声を上げる。 「俺も手伝うよ。力仕事は任せて」 「本当かい?二人とも、ありがとう!」 ぱぁっと顔をほころばせ、ジュゼッペは二人を交互に見やった。 「じゃあ、準備をするから、ちょっと待っててね」 「俺は何か手伝えるかな?」 友人二人の会話を聞きながら、立ち上がり膝を払ったところで、射抜かれるような視線を背中から感じた。思わず振り返ると、わずかに離れたところに立つのは旧知の女性。金の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。 「坊や。……触れても、何も起きなかったのね」 「え?う、うん」 挨拶もそこそこに、鋭い質問が飛んできた。トゥルームの言葉の真意がつかめず、ジュゼッペは首を傾げる。それを受けてか、彼女の小さなため息が聞こえた。 「そう。…………貴方なら、うまくやれるかもしれないわね」 「……うまく?何のことだい?」 「何でもないわ。気にしないで頂戴」 言い終えてすぐ、トゥルームがふいと視線をそらす。おそらくそれ以上の会話を求めていないのだろうと察し、ジュゼッペは小さく頷いた。 「うん、わかったよ……」 魔法を生業とするトゥルームが反応を見せるとは。やはり、何か不思議な力が宿っているのだろうか。クレーも口に出さないだけで、何かを感じ取っているのだろうか。 宙を舞いながら無言で見守る同居人の姿を見やりながら、ジュゼッペはぼんやりと考えを回した。 「あれ、どの辺りに刃を入れれば良いんだっけ?」 「あ、ごめん!えーとね……」 くるりと踵を返し、ジュゼッペは枝へと駆け寄った。 さあ、何から始めよう。 →Ad "Augurio" [目次] [小説TOP] |