「でも今はそこが大嫌いです」


苗字とは、この関係性が正しいはずだ。親しい上司と部下の適切な距離感。特別近すぎず遠すぎず。この二ヶ月が近過ぎただけで、それより前まではこれが当たり前だった。だからこの状況に不安を覚えるとか、少し物足りないとか寂しい気がするだとか、本来ならばそんなことを感じてはいけないのだ。

苗字の隣は妙に落ち着く。苗字が相手との距離感を測るのが上手いのは確かだが、多分、会話のテンポや空気感が合っているのだとこの二ヶ月間で新たに気づいた。


「黒尾さんは、どうしていきなりそんなに距離を詰めてくるんですか」

「どうしてだろうな」


俺の答えが気に食わなかったのか、不満そうな表情を隠すことなくこちらに向け、手元の酒に口をつける。苗字が動くたびに同じように揺れる、見慣れなかったはずの髪の長さにもだいぶ見慣れてきた。

以前苗字が連れてきてくれたところとは違う、俺の気に入っている居酒屋。ここもチェーン店ではなく、老夫婦が二人きりで経営している、ここらの住民の憩いの場となっているような小さな店だった。


「黒尾さんは、実際私のことどう思ってるんですか」


小さく沈んだ声でそう問いかける苗字の表情は、俯いていてよく見えない。


「うざいとか、しつこいとか、何かありますよね」

「そんなことは思ってねえよ」

「じゃあ、ずっと断ってんのに諦めないでバカみたいな女とか、思ってますか」

「なんでそんなに卑屈なんだよ」

「なりたくなくてもそうなりますよ」


最後の言葉は少しだけ声が張り上げられた。それでも、わいわいと賑やかな店内では俺たちのことを気にするやつなんて一人もいない。空になった皿を下げにきたおばちゃんの「まだ何か頼むかい」という気遣いに丁寧に返事をして、目の前で俯いたままの苗字に向き直った。


「苗字は、俺のどこが好きなの」

「またそれですか」

「もう一回聞きたいなと思って」

「……お互いの立場とか、今後のこととか、年齢だったりとか、いろんなことをちゃんと考えて、安易に私を受け入れないところが好きでした。でも今はそこが大嫌いです」

「大嫌いはねぇだろ」

「大嫌いです」


やけに落ち着いた性格の、真面目でしっかりとした信頼できる人物だと思っていた。もちろん今でも仕事時はその印象は変わらないし、プライベートだとしても後半部分はそう思っている。しかし実際は、親しくなればなるほど、苗字が苗字のありのままを曝け出してくれるほどに、年相応に俺からしてみれば可愛らしく思えるような必死さや無邪気さを兼ね備えていることがわかってきた。


「ごめんな」

「それは何に対しての謝罪ですか」

「今までのこと」


顔を上げた苗字は今にも泣きそうな表情をしていて、いびつに歪められた眉が眉間に深い皺を作っている。


「別に、謝らなくても良いです。好きになったのも、そのままで良いと思ってたのに黒尾さんに勝手に気持ち打ち明けて近づこうと動いたのも、全部自分の勝手ですから。黒尾さんが受け入れてくれなくても私は仕事を辞める気はないですし、このまま何もなかったようにまた黒尾さんの下で働くだけです。ちゃんとやります」


少し早口でそう言い切った苗字は、お手洗い行ってきますとそそくさと席を立つ。今にも溢れそうなほどに膜を張った瞳を隠すようにして駆けていく後ろ姿を見送って、会計を済ませた。

外には星が瞬いている。雲のない綺麗な夜空だった。九月に入ったばかりじゃ、まだまだ秋の気配なんてものは感じられない。夏の余韻を引きずったまま次へと足を踏み出すことができない中途半端なこの時期は、まるで俺と同じようだと言ったら怒られてしまうだろうか。


「すみません、お会計」

「気にすんな。あと、この前言ったっしょ」

「ありがとうございます」


苗字が今度は俺の好きな店に行きたいって言ったんだろうと、仕事終わりに半ば無理やり誘い出すのは少し抵抗があったが、そうでもしないと苗字はもう誘いに乗ってはくれないのではと焦ってしまった。当たり前にできていたことが、当たり前にできない。それが大きな不安になり、不満となっていくことを身に染みて感じている。

研磨は皮肉たっぷりに、あえて自分が言われるのが昔から得意ではない根性なしという言葉を使ってくれたが、本当にそうだと思った。

苗字は常に全力でぶつかってきてくれていた。そして、適切な判断を下して自ら元に戻ろうとしている。

苗字との距離感が元に戻ったこの期間、俺は常に苗字のことを考えていた。仕事の時はもちろん仕事のことばかりだし、家に帰ってもやはりそのことを考えてしまうことだってある。常になんて言い方をしたが、割合的にはやっぱり仕事や業界の今後についてのことの方が圧倒的に多かったかもしれない。でも今まではそれらだけでほぼ終わりだった。それだけで成り立っていたと言っても過言ではない俺に、今までにはない他のことを考える時間が生まれてしまった。それが苗字だった。

あんな風に告白を受ければ、そりゃたとえ嫌だって頭の中を占めるだろう。でも俺は、困りはしたが嫌ではなかった。あの日からもう二ヶ月も経っている。季節が一つ、過ぎ去ろうとしている。この期間ずっと俺の思考回路に割って入ってきて出ていかなかった存在は、苗字だけだ。苗字の気持ちを受け入れてこなかったのは自分なのに、離れて行ったらどこか寂しく物足りないだなんて身勝手すぎるこの気持ちを、他人に対して抱いたことは初めてだった。

そこで出た結論はひとつだ。俺は苗字が、好きなんだろう。

また急なと思われるだろうし、どのタイミングで気がついたんだと言われたら自分でもはっきりとこの瞬間だと言い切ることはできない。この数日間のどこかでそうなんだろうと思えてしまったのだから仕方がない。そしてそう思い始めたら、その考えを否定することなく自分でも驚くほどあっさりと「そうか」と認められただけだ。

始まりのゴングが鳴り響くような、わかりやすく始まる若い頃の感覚とはやはり少し違うのだ。毎日そこにあって、視界に入れているはずなのに気がつけなかった道端に咲く花の良さに、ある日突然フと気がつけるようなるように、今までと変わらないはずの日常の中でのわずかな意識の変化で始まっていく恋の方が、今の俺にとってはやはり自然だっただけだ。

根性なし、という、ご最もすぎるその言葉を頭の中で繰り返す。若い頃はどちらかというと根性があると言われる側の立場だったのに、人っていうのは変わるもんで、無意識に慎重になっていくもんだ。

お互いの立場、今後のこと、年齢。それらはとても重要なことで、何も考えずに安易に受け入れていいような歳じゃない。でもだからといって、臆病になれということでもない。


「あのさ」


無言で歩いていた苗字が、ビクッと一瞬肩を揺らしたあとゆっくりとこっちを見上げた。なんですか、という彼女の声は、今日も風鈴がそよ風に遊ばれ静かな音を奏でるような心地の良い響きをしていて、俺の心を軽快に揺らす。


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