「努力では補えない現実ってありますよね」
もう外は暗いというのに、蝉は少しも静まらずに耳鳴りのような音を轟かせている。
一人で歩くこの道がなんだか久しぶりな気がした一週間前。本来はこれが当たり前なことである。胸元のシャツを持ち上げパタパタと動かしてみるも、生ぬるい空気が肌に触れるだけで期待する涼しさは得られない。
上司と部下。これが普通。この距離感で、ずっと今までも過ごしていたじゃないか。相変わらず手のかからない仕事の出来すぎる苗字。ただ、先週から過度に接触してこなくなっただけだ。
「おかえり、遅かったね」
「おー、来てたのか。珍しいじゃん自分から来んの」
「たまたま近くで用事あって、帰るの面倒になった」
「自由でいいねお前は」
適当に買ってきてくれたらしいコンビニの弁当を二人で囲みながら、疲れ切った体に冷やしておいた缶ビールを流しこむ。喉を刺激する微弱な炭酸が、外から持ち込んだ鬱陶しい熱気を完璧に吹き飛ばした。スマホのアプリゲームを弄りながら、研磨が器用に片手で缶を開けた。プシュッとやけに軽快な音が鳴る。
「来るなら来るって一言連絡入れとけって」
「わすれてた」
「別にいーけど。飯とか外で食ってるかもしれないからよ」
「そうだよね」
スマホを置いて、グッと煽るように一度大きく缶を傾けた研磨が、体勢を戻すと同時にゆっくりとこちらを見る。
「気をつける。女の人連れ込んでる現場に遭遇するのとか俺もいやだし」
してもないのに、まるでその現場を見てしまったかのように顔を顰めた研磨が「ほどほどにね」とため息を吐く。
「いやいや、してないでしょうが。なんだよほどほどにって」
「そういえばまだ逃げてるんだっけ?じゃあ心配ないか」
研磨の言わんとすることをなんとなく、いや、しっかり悟ることができる。大きなため息を吐きながら「余計なお世話だよ」と返すと、研磨は楽しそうにニヤリと口角を上げた。しかし、「あのさ」と小さく呟いた俺に、研磨はすぐにその表情を元に戻す。
「好きでもない奴に好意向けられ続けたら迷惑だと思うか?」
「んー……迷惑っていうか、だるい」
「間違ってもいい気はしないってやつか」
「まぁそうだね」
これを聞いてくるってことは、なんか言われたんだ。疑問系ではなく、確信を持つようにそう言ってきた研磨は、やっぱり敵には回したくない。
「俺からしたら、あからさまな好意を常に向けられても鬱陶しいとは思わない他人って、それだけで十分相性いいと思う」
「それが大事な部下でも?」
「クロは好きになったら、仕事中でも態度変えたり、何かしたりするの?それとも別れた時のことをもう考えてる?」
全てを見抜く大きく鋭い瞳が俺を射抜く。
「会ったことないけど、聞いてる限りじゃ相手も付き合ったからといって何か変わるような人だとは思えないけど」
「……前から思ってたけど、お前ずいぶん苗字の肩持つね」
「そんなつもりないよ。二人がどうなろうがこれっぽっちも関係ないし」
ゴクリと喉を鳴らし、うまそうにビールを一口流したあと、「ただ」と研磨はこっちを見もせずに続ける。
「曖昧に濁して逃げようとしてる、今のクロの味方にはなれないかな」
前にも言ったけど、立場とか年齢とか職場とかってその人の装飾品でしょ。人によってはそこを大事にする人もいるけど、少なくとも俺が今までずっと見てきたクロはそういうところを重視する人ではなかったと思う。
缶ビールを握っていた自身の右手を見つめていた研磨の視線が、ゆっくりと上を向く。感情を読ませない圧の強い瞳が静かに俺に狙いを定めた。
「根性なし」
「苗字」
席を立とうとした苗字を呼び止める。すかさず放ったこの後時間あるか?という問いかけに、仕事のことだと思ったのか、苗字はカバンを持ち直し神妙な面持ちで「大丈夫ですけど、何か問題でもありましたか?」と答える。
「いや違くて、久しぶりに飯でもいかねぇかなあと」
「あー……すみませんそれならちょっと、申し訳ないです。この後美容院予約してて」
若干気まずそうにそう言った苗字は、軽く頭を下げそそくさと出ていった。それを見ていた後輩が「聞いちゃまずいかなって思ってたんすけど、苗字さんと黒尾さんって別れたんですか」と、周囲を気にしながら小さな声で話しかけてきた。
「いや」
俺のその言葉に、じゃあ喧嘩中ですかと同情の目を寄越してくる。言い返すのも面倒になってそれ以上は何も言わなかった。いや、の次につながる言葉は、別れるも何も俺たちは何も始まってもいないんだよ、だ。
「あ」
という短い声が重なったのは翌日の夕方のことだった。苗字の髪色が少し落ち着いていた。どこかへ出掛けていたのか、普段会社では見かけない色で目周りが彩られている。
まだ暑いのは暑いが、それでも先週に比べればだいぶ過ごしやすくもなったと思う。八月も残り数日となり、つい先程まで上がり込んでいた研磨の家では、どこか寂しさを募らせるようなひぐらしの鳴き声が響き渡っていた。
「よぉ」
「黒尾さん、こんばんは」
ぺこっと頭を下げた苗字の僅かに艶が入った髪の毛がサラリと肩から落ちる。良い色になったなと言うと、ありがとうございますと静かに微笑んだ。
「つか、だいぶバッサリいったのな」
「やっぱり好きになるなら髪の長い方が良いんですか」
「どちらかというとタイプはそうだけど、髪型で好きになるわけじゃないしそれはまた違うだろ」
「ですよね」
淡々とそう言った苗字は、言うか言うまいかを少し悩むような表情を一瞬だけ見せ、結局言うに至ったのか「どれだけ長くても黒尾さんはそれで付き合う相手を選んではくれないですもんね」とまた静かに微笑んでみせる。
「なんかずいぶんトゲがあんな」
「性格悪い言い方しました、すみません」
自分で言ったにもかかわらず、若干後悔するような寂しそうな目をした苗字は、俯いたまま「努力では補えない現実ってありますよね」と言って昨日までよりも短くなった毛先を指で弄る。
「こっちの長さのほうが苗字には似合ってると思うよ」
「ありがとうございます」
「もちろん、嫌味とかじゃなく」
「わかってます」
私もそう思ってたので。そう言ってもう一度サラサラと風に遊ばれる毛先をつまみ、にっこりと笑った。
赤く染まった太陽が一直線に光をぶつけてくる。少し薄暗くなった空にこの季節を象徴するような大きな入道雲が浮かんでいた。苗字の、風鈴のような涼しげな声が凛と奏でられる。
「ではまた会社で」
ゆったりとした弧を描くように細められた彼女の目は、どこか遠くを見ているように感じられた。その瞳にしっかりと俺も映り込んでいるはずなのに、上手く焦点が合わない。
姿勢正しく遠ざかっていく背中を、定期的に振り返っては確認した。まだ見慣れない短くなった彼女の髪が歩くのに合わせて踊るように舞っている。やっぱり彼女にはその長さのほうが似合うと思った。
本当はもっと言いたいことがある。特別面白い話題ではないのかもしれないけど、話したいことがある気がする。でも避けられてしまっている。いや、避けられているわけではないか。適切な距離感に戻った俺と苗字じゃ、それらは伝えきれない。
研磨が言っていた通り、曖昧に濁して逃げていたから、今こんな曖昧に濁った消化しきれない感情に包まれることになっているのだと思う。もっとはっきりと、これ以上の関係は望めないと苗字をしっかり拒絶していれば。それか二人手を取り合って先に進んでいく決断をしっかり下していたら。この言いようのないモヤモヤとした喉の奥のつっかえを、今頃感じはしなかったのだろうか。
夏の終わりの近い匂いが漂う。蒸し暑さはまだまだあるが、ピークはとっくのとうに過ぎた。
ほんの僅かに過ごしやすくなった夜に、俺の頭の中を支配するのは、いつも通りの仕事のことでも今後の業界のことでもなく、たった一人の、年の離れた部下の彼女だ。