「黒尾さんと過ごす予定ができて嬉しい」


隣にいて安心するとか、不安要素がないとか、特別過剰にならなくても良い相手。いつも通りの自分でいつも通りいられる、安定を崩されない相手。その人といると、相手だけではなく自分自身すらも穏やかに愛せると思えるような。これからもしも恋をするのならば、俺はそういう人を好きになりたいと思っていた。今でももちろん思っている。

苗字の隣にいるとその全てが満たされるような気はだいぶ前から感じていた。苗字の人柄には何も文句がない。いくら好意をぶつけられても迷惑とも思わない。研磨はそれだけでも相性が良いと思うと言っていたが、それは結構な真理だとも思えた。応える気のない相手からの真っ直ぐすぎる好意を長い間躱し続けるのは、かなり精神を削る行為にもなる。


「なんですか」

「さっき苗字が言ってたように、これからも変わらず俺の一番信頼できる部下でいて欲しい」

「それは……当たり前です」


何があろうとなかろうと、俺たちの関係は変わることはないらしい。どう考えても俺よりも名前の方がどっしりとした覚悟がすでにできているようで、どこまで行っても敵わないような気がしてきた。


「じゃあ、今ここで俺が苗字のことが好きだって気づいたことを打ち明けても、それは変わんないってことだよな」


え?と言う、この空気に似合わないずいぶん間抜けな声が響いた。口をうっすらと開けたまま。目はこぼれ落ちそうなほどに開かれている。


「……いきなりなんなんですか」

「なんでそんな警戒するような声出してんの」

「よく理解ができないからです」

「そのままです。苗字のこと、好きだったんだなって自覚できた」

「……いきなりすぎて意味わかんないです。急展開すぎます」

「じゃあ他になんて言えば良いんだよ」


黙り込んだ苗字が立ち止まる。俯くと同時に彼女の髪の毛が輪郭に沿ってはらりと落ちた。


「どう頑張っても年は離れたままだし、私はずっと黒尾さんの部下ですよ」

「だとしてもだよ」

「どうしてですか、あんなにそこにこだわってたじゃないですか」

「こんなこと言ったら元も子もないんだけどさ、自覚できたらどうしてそこにそんなにこだわってたのか説明がうまくつかなくなっちゃったんですよね」


顔を上げた彼女は「はあ?」と少し怒ったような声を出しながら、またいびつに歪めた眉で眉間に皺を刻んでいる。それでも先程居酒屋で見せた悲しそうな表情とは打って変わって、怒りの中にわずかな喜びが見えるような気がした。


「何っで、なんでなんですか!!」

「痛っ、いきなり殴んな」

「意味わかんないです!」

「わかれよ、好きなんだって」

「わかんない!」


だって私がいくらそんなの関係ないって言ったってダメだったじゃないですか。ポコっとか弱い力で拳を俺の腹にぶつけた苗字は、震えた声でそう言って俺を見上げた。

腕を伸ばせば触れられる距離にいる。そのことに安堵する。

隣にいて安心する。不安要素がない。特別過剰にならなくても良い。いつも通りの自分でいつも通りいられる。安定を崩されない。苗字はずっとそうだった。それはずっと前からわかっていた。でもここにはなかった追加項目が、自分の中で最も重要なのではないかと、苗字との距離が開いてからフと気づいてしまったのである。

その人がいないと、いつも通りではいられなくなる。いないことで安定が崩される。自分の生活を送っている中で、自然と相手のことを考えてしまう。多分、今までそんな人には出会ったことがなかった。前の彼女もその前の彼女も、別れてもそんなことになったことはなかった。

研磨の言う、その人の外側の部分。年齢だとか立場だとか、それらはとても重要なことで、そしてしっかりと考えて時には冷静な判断を下さなければならない項目だ。それでも、冷静に考えた上で俺は苗字といたあの時間の心地よさを求めてしまった。


「むしろ俺は苗字からすればだいぶおっさんなんだけど、それでも本当に良いわけ?」

「良くないと思ったことなんて、たったの一度もないです」


腹に添えられたままだった手が、勢いよく俺の背中まで回った。「うおっと」と声を上げると、「その反応はおじさんみたいです」と言って、苗字が子供みたいな弾ける笑みを見せる。


「生意気娘」

「でもそんな私が好きなんですよね?」

「おま、いくらなんでも切り替え早すぎだろ」


後輩が言っていた。相手が急に可愛く思えるとか、まだ帰ってほしくないと思う時、好きになったことを自覚すると。

俺よりもだいぶ低い背の苗字の頭に手のひらを置く。ケラケラと風鈴が風に揺られるように笑っていた彼女は、きょとんとしながら俺を見上げ不思議そうな表情を見せた。


「あー……こういうこと……」

「え、なんですか?」


後輩の返事を聞いた時、ちょっとガキくさいというか、そんなピュアな自覚の仕方が俺にできるかよとか、実は思ってしまっていた。そう答える後輩が、俺に弟はいないけどそんな感じに思えてしまって可愛く見えて、思わずそのまま「可愛いねお前」なんて言ってしまったけれど、今、そう伝えてしまったことを少し後悔することになっている。

可愛い。目の前にいる彼女が。まだ帰したくないなと思ってしまうくらい。もう一つ後輩が言っていた、一人の時に彼女のことをつい考えてしまうなんてことは、もうとっくのとうにそうなってしまっている。


「あのさ、苗字」

「はい?」

「このあとなんか用事ある?」

「こんな時間から、あるわけないじゃないですか」

「だよな」

「でも、今黒尾さんと過ごす予定ができて嬉しい」

「……だよな」


一本取られたような気持ち。振り回して振り回されて、好きの自覚も何もかも、若いもそうじゃないも案外そう変わらないらしい。


「ちょっと一回連絡させて」

「誰にですか?」

「幼馴染の男」

「良いですけどなんで」

「俺だって苗字と居る現場に遭遇されるの嫌なんで」

「一緒に住んでるんですか?」

「いいや。追々そいつのことも話すよ」


歩き慣れた最寄駅からの道。彼女との分かれ道をそのままスルーして、二人で隣を歩き続ける。右手でスマホを操作して今日もまた気怠げにゲームや配信を行なっているであろう人物の名前を探した。左手は、彼女と繋がったまま。


- ナノ -