「そろそろ迷惑ですよね」


苗字がわかりやすく俺に絡み始めた当初は、それはそれは何やかんやと揶揄われていたが、もうさすがに周囲も騒がない。

しかし今日いきなり後輩に「黒尾さん、苗字さんと付き合ってるんですか?みんな気になってますよ」と聞かれてしまった。


「苗字はなんて言ってんの」

「笑って誤魔化されます」


そのやりとりが簡単に想像できた。そこはさすがに否定しなさいよ。と言いたいところだが、俺も今この瞬間にはぐらかそうとしているのだから責めることはできない。


「なぁ、好きになったことを自覚する瞬間ってどんなだと思う」

「いきなりなんすか」

「なんとなく?聞いてみたくて」

「えー、相手が急に可愛く見えちゃった時とか、まだ帰ってほしくないなーって思った時とかすかね?一人の時にその人のことつい考えちゃったり、眠れなくなったり」

「……なァんか、かわいーねお前」

「黒尾さん……すみません俺、彼女います」

「狙ってねーよ」


大きな声で笑った後輩は、どこか嬉しそうな表情を見せる。


「黒尾さんって基本何でも器用にこなせちゃうから、この手の質問されるの予想外でした。苗字さんのこと本気なんですね」


さらっとそう言ってのけた後輩に思わず目を見開いた。今の質問のどこでそう結論だしたんだよ。そう思いながら、返す言葉もなくただ相手を見つめる。俺なんかで良ければいつでも話聞きます。そう言い去っていった後輩に思わず唖然とした。

本気?俺が、苗字に。





日本一の山と言えどこの時期の山頂に雪の姿はなく、どこか少し寂し気にも見える。地方チーム関係での出張に駆り出されている俺たちだが、予定が巻きに巻いて早く終わりすぎてしまい早々に手持ち無沙汰となっていた。


「黒尾さん、これ凄く美味しいので食べませんか」

「もう食べられないからって押し付けようとしてんだろ」


暑さを凌ぐために入った喫茶店のカウンターで、夏限定メニューのかき氷を嬉しそうに食べていたはずの苗字は少し前にその手を止めた。多分もうきついんだろうなと気づいてはいたが、ゆっくりでも食べ進めようとするその健気さは微笑ましく、いつ音を上げて俺を頼るかを見守っていた。


「もうほぼ溶けてるじゃん」

「アイスは溶けかけが一番美味しいんですよねぇー」


かき氷に関してはまた違うだろと笑って突っ込みながら、シャクシャクとまだ僅かに残る氷の感触を楽しむ。隣に座る苗字は、氷と冷やされた室温に寒そうにしながら「黒尾さんって体温高そうですよね」と言って無理やりひっついてくる。


「私は寒くて寒くてダメです」


もうほぼ甘い水と化したかき氷を平らげ、店出るか?と声をかける。が、「でもこの時間にする事なにもないじゃないですか」と言われてしまえば、そうだなと返すしかない。

彼女の体温を左半身に感じながら、若干の気まずさを紛らわすために手元のアイスコーヒーに口をつける。


「すみません、そろそろ迷惑ですよね」


恐る恐るというように放たれた小さな声に僅かに反応が遅れた。

こういう時はいつもこっちから何を言っても聞き入れず動かないはずの苗字は、今日は自らそう言った後すぐに離れていき、鞄から薄手の上着を取り出した。


「迷惑ってか……なぁ」

「迷惑ですよ。よく考えれば私だって好きでもない相手に付き纏わられたら嫌ですし、怖いですし、間違っても良い気はしませんから」


温かかったはずの左半身に、冷やされた空気がまとわりつく。


「今のうちに明日のスケジュール確認でもしちゃいますか」


何事もなかったかのようにそう言って、苗字はテキパキと取り出した資料にチェックを入れ始めた。冷やされすぎている店内の空気は、肌の表面だけではなく体の芯まで温度を下げていった。

思考回路を麻痺させるほどの桁外れの暑さにどうにか耐えながら、東京への帰路につく。今日は昨日とは違って予定が押しに押した。想定していた時間の新幹線には間に合わず、もう変更手続きも手間だし、一時間程度だから自由席でもいいのでは、という苗字に「俺がやるから」と無理を言って指定席を確保したが、俺の判断は間違ってはいなかった。

ぶつかっては離れていく、不安定に揺れる苗字の頭を右肩に固定させる。ピクリとも反応せずそのまま静かに寝息を立て続ける苗字は、今日一日動き回ったせいか目に見えて疲れているようだった。

じんわりと温まる右肩に、思わず意識が集中する。外はもう真っ暗で目を凝らしても何も見えなかった。

昨日の彼女の一言が再生される。迷惑ですよね。寂しそうでいて、どこか後悔でもするかのような悲し気な表情。それが突っかかって、昨夜は今日が忙しいとわかっていたのになかなか寝付けなかった。そして今も眠気は全く来ない。

苗字のことで悩む日々だが、迷惑だと思ったことは一度もないのだ。不思議なくらい、そうは思っていない。彼女の気持ちを受け入れはしないのに。嫌悪しているわけでもない。

――年齢も立場も、私には変えられないものじゃないですか。それに邪魔されるのは納得いかないです。

――もしも私の歳がもっと近くて、出会いが職場じゃなかったら、付き合ってくれてたんですか?

それらの言葉と思い出される表情をどうにか遠ざけたいのに。そうしようと思えば思う程、しつこく脳を支配していく。

東京への到着を告げるアナウンスが響き渡り、車体が一度大きく揺れた。それにより目を覚ました苗字が、慌てたように起き上がり、気まずそうにこちらを見て頭を下げる。


「すみません、重かったですよね」


「いや、こんくらい」大丈夫。と続けようとした俺の言葉を遮るように立ち上がった苗字は、「行きましょうか」と言い、荷物棚からキャリケースをそそくさと下ろし歩き出した。

最寄りまでの道のりも、そこからも、いつもの別れ道に差し掛かるまで、特に取り止めもない会話をするのみだった。これを物足りないとは思いたくない。職場の仲間、上司と部下ならこれが当たり前のことなのだ。

苗字が引くキャリーケースのガラガラという無機質で不安定な音が響く。日中かいた汗のせいで、ベタベタと背中に張り付くシャツの不快感にどうしてか意識が集中する。

ではまた職場で。そう言った苗字は、蒸された暑さを微塵も感じさせないような、妙に涼しげな笑みを浮かべていた。


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