43



フランス、パリ。バレーボール競技の全日程が終わっても、オリンピック自体はまだ続いている。試合が終わったからといってすぐに帰れるわけでもなく、飛行機や人数の調整で数日はこちらで過ごすことになる。

どこに行っても人で溢れているのはもう仕方のないことである。それでも比較的ゆったりとした時間を過ごせる地域へとやってきていた。先ほど買ったチョコレートを一粒口に放り投げ、感心したように尾白が口を開く。


「あの白鳥沢のやつが作ったとは思えんわ」

「まー、性格はアレやけど味は良えよな」

「性格に関して侑は人のこと言えないでしょ」


日本とは違って、真夏といえども比較的空気はカラッとしている。しかし日差しは比べ物にならないくらいにとても強い。


「この後どうするかー」


周辺のカフェも埋まってしまっているようだ。見渡す限りすぐに入れそうな店はない。


「お前ら行きたいとこあらへんの」

「特には」

「もー人少ないとこならどこでもええて」

「せっかくパリまで来てんのに欲無さすぎやろ」


三人揃って「とりあえず暑い」と言いながら道端に寄る。日本と比べると若干気温も低いが、この強い日差しの中だとそれだけでも結構な体力を持っていかれる。カラフルな外観の大きな施設の影に隠れて、今後の行き先をしっかりと決めようとしたところで、侑が「あ!」と大きな声を出した。


「あれミョウジさんのやろ?」

「ほんまや」


施設の階段の下にまとめて置かれた、周辺で開催中である催し物のチラシたちの中に、ナマエのブランドの個展についてのものがある。それを一枚手に取って、尾白は先ほどのチョコレートを口に入れた時のようにひどく感心した声を出した。


「すっごいよなぁ」

「本当に」

「角名はこれ行かんくて良えの?当日券もあるっぽいで」

「無駄やアランくん、こいつが素直に行くって言うわけないやろ」

「行かないです」

「ほらな」

「なんで?」

「俺の役目はもう終わってるから」


そうは言いつつ、尾白の持つチラシに視線を落とし、ずいぶんとわかりにくくはあるが、明らかにいつもより柔らかな表情を角名が見せる。ナマエの活躍を誰よりも喜んでいる、そんな顔だ。珍しく心の内が隠しきれていない角名を見た侑は眉間に皺を寄せ、未知の生物でも見るかのような険しい表情を見せた。


「全くもって理解できへんわ」

「しなくていいよ」

「角名の言いたいこともまぁわからなくはないけど、でもなんでこんな近くに居んのに行かへんの?何かが始まるかもやろ」

「まだミョウジさんも角名のこと好きかもしれないやん」

「もう何も始める気ないんですよ。あとその言い方、俺がまだ引きずってるみたいに聞こえるからやめろ」

「でもなぁ、本当に何が起こるかわからへんやん。映画とかドラマとかでよくあるやろ?偶然再開した二人がもう一回恋に落ちて〜みたいな」

「ここは映画やドラマの世界じゃないんで」

「そうじゃないから自ら行くんやろがい!」

「それはそういう未来をまだ望んでる人たちだからやることでしょ」

「……頑固やなー」


この話題に関してはいつもこうだと呆れたように侑がため息を吐く。それを無視するように角名は黙り込んだ。

映画やドラマのように特別な何かが始まるにはもってこいの場所にいるではないか。この街でそれを起こさなかったら、一体どこで起こすのだ。と、尾白は思った。

後輩たちの間に起こったことについて、正直詳しくはわからない。尾白はナマエのことについても、同じ高校にいたあの角名の彼女であるというだけで、大した関わりはない。でもだからこそ、仲間内からかいつまんで聞いただけだが、二人の結末をもったいないとも思ってしまうのだ。他人の事だから簡単にそう思えるだけで、確かに自分が同じ立場ならそうしてしまうであろうとも思いつつ。もちろん当人同士が納得して選んだ結果ならそれが一番良く、他人がでしゃばる話題ではないことも尾白はしっかりとわかっている。


「なーんか腹立ってきた。やっぱ俺が無理やり連れてったるわ」


強制的に背中を押し歩かせようとする侑に、必死に角名が抵抗する。俺がキューピッドになったると、間違ってもそのような存在には見えない圧を放ちながら侑が角名を引きずろうとするのを、尾白が間に入って止めながら「こんなとこで喧嘩して高校生のガキかお前らは!」と焦ったように叫んだ。


「侑の気持ちはよくわかるけど、角名が言うなら仕方ないやろ。角名とミョウジさんが二人で出した答えなんやから」

「むかつくわぁ」

「でもな、ええか角名。どんだけドラマチックな脚本のドラマや映画があっても、所詮それは人間が強制的に作り出したストーリーなんや」


尾白の言葉に、角名は眉を顰め「はあ」と、とりあえずの返事をする。


「つまり、作ろうと思えば自力でも他人が強制的にでも、作り出せるんよ、そういう展開は」

「……あー……はい」

「めんどくさ流しとこって思っとるやろわかりやすいな!自分ではどんな素敵な偶然だとかなんだとか思ってても、なんやかんやで無理やり他人が作り出してることもあるってこと!」

「……正直最初の方聞いてなかったんで、一から説明してもらって良いですか」

「だー!もう細かいことはええから!つまりそういうことやて」

「え……はい」

「おま、なんやその顔は。今俺のことアホやと思っとるやろ……!」

「すまんけど、ちゃんと聞いてても意味わからへんでアランくん」

「もうええよ!説明下手な俺が悪いて!ただもっと現実にも夢見てええんやで!ってこと!!」


ハアーと呼吸を整えるように大きなため息を吐き、切り替えたように尾白が「で、お前らは行きたいとこホンマにないんか?」と二人を見る。


「どこでもええてー。早く決めて動こ、暑いわー」

「俺も特に」

「せーっかくパリまで来てんのになぁ。よっしゃ、じゃあ一個行きたいとこあるからそこ着いてきてくれ」


張り切って歩き出した尾白の隣に侑が並ぶ。


「おもろいとこ?」

「当たり前やん」

「涼しい?」

「室内やから多分なあ」


もう実は内緒で事前入場予約しててチケット三枚取ってあんねん。尾白のその言葉に、勝手に人数分取ってるて寂しがり屋か!と侑が笑う。二人のやりとりを頭の隅で流し聞きながら、角名は置かれたチラシにもう一度視線をやり、前を歩く二人の背中を追いかけた。

日本とは完全に別世界のように思える、西洋文化と歴史の詰まった古都。あらゆる分野に強い都市だが、中でもファッションに関しては常に最先端を行っている。近くにある教会が力強く鐘の音を響かせた。ここがナマエが、今住んでいる街なのである。

見上げた空はなんだか遠くに感じた。空なんて、日本だろうがパリだろうが、高さはほとんど変わらないだろうに。意識の問題なのか、はたまた本当に実感できるほどに遠いのかは定かではないが、薄く濃い青さは、角名があの日一人きりで家を出て体育館へと向かった際に見上げた色と似ている気がした。

恋に、生きてきたわけではない。

どちらかといえば、というよりも、完全に今までの自分に関してはバレーボールにかなりの時間と熱量を割いて生きてきてしまったと思う。そんなに熱い想いを抱いて突き進んできた自覚はないが、それでも、自分の人生と言っても等しいと柄にもなく思えてしまうくらい、結果的に時間も気持ちもたっぷりとかけてきてしまったのだ。そして、それはきっとこれからも続くのだろう。

このまま出来る限り、行けるところまで。そう思って歩いてきたため、夢、と大きく自身で掲げたつもりはなくとも、そう呼ぶのが一番しっくりくる、角名の立っている道。導いてくれたのはいつだってナマエだった。そして、ナマエのそれを導いたのは角名であった。

もしもこの先、お互いのこの人生の道の先に角名の姿が、ナマエの姿が一切見えなかったとして。最後まで二人の行き先が交わることなく完全に二本の別々の道だと判明したとして。それでも、別に良いのだと角名も思っている。

進む道の先に姿が見えなかったとしても、後ろを振り返ればナマエの姿が、角名の姿が在ることだけは確かなのだ。

あの日一人で家を出た瞬間から、角名もナマエも、もう自分自身の選択や進む先を怖がったり、不安に感じたり、焦ったりすることはなかった。二人で過ごした期間のお互いの努力している姿を思い出せば、自ずと自分が選ぶべき答えが見えてくる。

もしも今後新たに愛する人ができたとしても、夢に関する点でいえば、そのような気持ちになれる存在はこの後もずっとお互い以外にはありえない。

それは、変わることのない事実である。

人生の最期の瞬間、隣に立っている愛する人が誰だかはわからないとしても、自分の人生の大半を占めることになった夢について振り返った時、きっと角名はナマエを、ナマエは角名を思い浮かべるだろう。

恋をしていた。愛していた。この人以外はいないのだと、そう、思っていた。

そしてこれからも自分の人生において、誰も塗り替えることはできない特別な立ち位置で、最も大切な存在なのである。最期の最後まで。


最期に思い浮かべた
あなたは
プリムラみたいな
姿をしていた

- ナノ -