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この街は今、熱狂の渦の中にある。ついこの間は建国記念日があり、街は今とは違う熱気に包まれていた。しかし、その記憶ももはや遠く思えてしまうほどに、行き交う人々の話題は現在この土地で行われている世界的な祭典に集中していた。

そんな中でも、その祭典とはまた別の事でここ数日間忙しく動いていたナマエたちは、どこに行っても混んでいるからとナマエの部屋でのんびりと過ごしていた。

そして今この部屋には、友人のスマートフォンから緊張感のないマル・マル・モリ・モリが流れている。そしてテレビからは、緊張感の漂うパリ五輪バレーボール男子日本代表の幕開け試合が。

ずっと、この瞬間を待っていた。ずっと。

ゆらりと静かに闘志を燃やし、射抜くような視線で敵を捉え、涼しげな表情でコートに立つ一人の人物。決して目を離すことはしなかった。離すことなどできなかった。SUNAと書かれた赤いユニフォームに袖を通しているその姿を、瞬きも惜しいほどに必死に目に焼き付ける。

ナマエの立ち上げたブランドは、元々の協力者が業界内で強かったこともあり瞬く間にあらゆる展開をしていった。しっかりと軌道に乗り、現在は世界のあちらこちらにファンもいて、広く支持されている。コレクションや展示会にはかなりの人が集まってくれるようになり、ファッションに精通している人々からは結構な知名度を得ることができるまでとなった。

フランスにきてからは休む間もなく常に忙しいナマエだったが、ここ最近はいつにも増して忙しない毎日を過ごしている。今開いている個展が終わったら、すぐに次のコレクションの準備に取り掛からなければならない。そしてそれら全てが片付いたら、しばらくは数週間ごとに往復の体力的に過酷な日々を送ることにはなるが、活動拠点をパリから日本へと戻し、徐々にゆとりを持てるように調節していく予定だ。着実にファンと信頼できる人材を増やして活動の幅を広げ、資金と知名度を伸ばしてきた結果、場所にこだわることなく動くことが可能となった。

倫太郎の姿はこちらからは見られる。テレビ越しだけれど、こうして彼も更なる高みへ登っているのだと示してくれている。ナマエはテレビに映る角名の変わらぬ姿に表情を緩めた。あの後も努力を怠らず、向上心を持ち続け、折れることなく必死で日々を生きてきたことをこうして見せてくれている。しかし、彼は私の活躍を知ってくれているのだろうか。

検索すれば簡単にヒットするナマエのブランドに関する記事たち。ネットをよく見ている角名だが、自らナマエのことを検索することは意地でもしないだろう。ナマエもそれはしてほしくないと思っている。しっかりと記事が取り上げられて、自然と角名の目に入る形が一番良い。もしもそういう形で知ってもらえていたら、それほどに嬉しいことはない。

活躍している姿を見せることが、自分にできる角名に対しての最大の恩返しだとナマエは思っている。

私がフランスに行っても、こうして姿が自然と目に入るくらいの活躍を見せて欲しい。今思えば、とてもわがままで傲慢で自分勝手な願いだったと思う。でもだからこそ、自分もここにくれば自然と目に入れられるくらいの活躍をしなければならないと、常に心を強く保てたというのもある。そして、そうなっていると今は自信を持って思える。

角名に出会ってからの十年間は、今でもナマエの中で一番大事な期間だったと言える。自分の大事な部分を全て作り上げた期間だと言っても良い。

それがなかったらきっと乗り越えられていなかったであろう壁や試練も、あの後数多く経験してきた。デザイン等のアイデア面だけではなく、売れ行きや展開についての経済面、それに人間関係から土地柄の違いまで幅広く。

ため息を吐いても吐いても吐ききれないほどに落ち込んだ日もあれば、どちらかというと穏やかな性格をしている自覚のあるナマエが、自分で自分に驚いてしまうほどに怒り狂った日もあった。泣きたくなった日も、実際に涙が溢れてしまった日もあった。しかし、決して折れることはなかった。

角名と過ごした日々で得た経験や考え方、そして自分たちの取った選択肢が、ナマエを支えてくれていた。

角名の言った通り、ここは映画やドラマの世界ではなかった。外から見れば煌びやかな業界ではあるが、内側は様々な問題を抱え続けている。あのまま関係を続けていたらそれに甘えることも多々あっただろう。なにも甘えることが悪いことだとは言わないが、ナマエはそこから崩れてしまいがちな性格だ。

あれから全てを仕事に注いできた。他には見向きもしなかった。だからこそ今がある。そして、やっと少しだけ肩の力を抜いてもいいところまで来たのだと、テレビ越しに活躍を見せる角名の姿を見ながら思った。


「さっきからこの選手ばっか真剣に見てるけどさー、何、ファン?」

「あー、違う違う。いやそうかもしれないけど」

「なんだそれ」


ケラケラと笑う友人が、スマホの音楽を止めて一緒になって画面を見つめた。やっぱ私にはわからんなぁと言いながら目を逸らした彼女は、適当なように見えて実はかなりしっかりしている。ナマエはじっと射抜くようにその友人を見つめた。彼女が「え、どしたの」と、いきなりテレビではなく自分を見てくることに恐怖するような声を出し、怖がるように自身を抱きしめるポーズをとった。


「あんたのこと心の底から信頼してるから言うけど」

「うん」

「この角名って選手、私の元彼」

「……嘘、まじ!?」

「高一から十年付き合ってた」

「十年!?……ってことはこっちにくるまでずっとってこと?」

「うん。私の夢を一番応援してくれてた人だよ」


にっこりと笑って、テレビに視線を戻した。試合はファイナルセットまでもつれる波乱の展開が続いている。

交代でしばらくコートから抜けていた角名が戻ってくるようだ。どちらが勝っても負けてもおかしくない、実力の拮抗したシーソーゲーム。強豪国と渡り合えるまでに強くなったと言われる自国のチームの中に、角名の姿があることを誰よりも喜ばしく思う。

倫太郎に最後までさよならと言わなかったのは、別れようとは言われなかったのは、お互いの最後の意地だった。二人でいる間はそういう言葉を相手には発したくなかった。自分たち自身で選択した結末は分かりきっていたのに、なんだかおかしな話だけれど。

あの最後の日から、熱の冷めないはずの感情に無理やり蓋をして過ごしてきた。もしも今その蓋を開けたら、その中はまだ激しくぐつぐつと吹きこぼれそうになっているのか、もう常温に戻ってしまっているのか、はたまた冷めてしまっているのかは正直わからない。

ドッと会場が沸いた。テレビ越しにもその熱狂が伝わってくる。仲間と笑い合う角名の表情は、いつものクールな彼からは想像し難い素直なほどの喜びに満ちている。しかし、ナマエにとっては見慣れたものでもある。角名がバレーボールという道で今もその表情を浮かべていることが、何よりも一番に嬉しかった。


「会いに行かなくていいの?」

「行かないよ」

「なんで?」


意味がわからないという友人の反応に、ナマエは微笑みを返すだけだった。


「こっちくるからって別れたんでしょ?嫌いになって離れたわけじゃないんだよね?まだ好きだとかないの?」


騒がしい画面の向こう。それとは対照的にひどく冷静な自分。感情は確かに昂っているが、勝利の喜びよりも何よりも、やはり角名が笑顔でそこに居ることが嬉しい。


「恋愛的な好きだとか嫌いだとか、この人はもうそういうんじゃないんだよ。そんな枠には収まりきらないの。私の夢の一番の協力者で、仲間で、その点では何よりも誰よりも大切な人なの。それでいいの」

「……むずかし」

「簡単だよ。たとえ隣に居なくたって、この先自分がどんな人生を歩んだって、この人が大切な人の枠の中から外れることは最後までないんだって。この人がいなかったら私はいないって思えるような人なの。それってある意味ただの恋愛相手よりも特別枠じゃない?」


「えー?私は新しく彼氏ができたら更新しちゃうなそういう枠も」

「もー、いいの。これは私と彼にしかわからない感覚なの」


名前を間違えて覚えていた、出会ってすぐの角名を頭に思い浮かべる。最後に見たあの日よりもだいぶ幼いその姿が微笑ましい。告白をされた日のことを思い出すと、今でも学生時代に舞い戻ったかのように気恥ずかしく妙にソワソワした気分になる。

あれから十年間、間違いなく、ナマエは角名に恋をしていた。

この先の人生、何が起こるかなんて誰にもわからない。順風満帆に過ごしていた自分たちが、まさかこのような結果になるなんて思っていなかったように、この先のことなんて誰にも予測できない。

これが自分の人生の一番の恋として終わるかも、まだわからない。あれから恋愛方面に熱を注ぐ暇もなく走り抜けてしまったが、これから先もしかしたら、もっと身を焦がすような恋に落ち、他の誰もが、倫太郎でさえもが追いつけない愛情を捧げたいと願う相手ができるかもしれない。でも、それでもいいとも思っている。ナマエはふっと軽く息を吐くように笑った。

もしもナマエの人生の中で、一番愛した人が角名でなくなったとしても、それでも良い。同じように、角名の中でナマエが一番でなくなってしまったとしてもいいのだ。今のナマエは角名のプライベートについては何も知らないから、もうすでに角名はそのような相手に出会ってしまっている可能性だってある。それでも、悲しいとは思わない。


「おめでとう、倫太郎」


小さく呟いた声はテレビの音にかき消された。どうしようもないほど頬が緩む。思わず泣いてしまいそうだ。目の奥がつんとする。耐えるように下唇を噛み締めても、緩みきった口角は上がってしまう。

恋人としての立ち位置は誰かに塗り替えられたとしても、愛した人という過去になってしまったとしても、ナマエにとっての、角名にとっての、夢の協力者としての立ち位置は他の誰にも塗り替えられることはないと確信している。
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