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この怒涛の三ヶ月をなんとか乗り越えはしたものの、不完全燃焼な思いは拭いきれなかった。もっと他にできることはなかったか、違うやり方があったはずだ、もっと早くにしっかりと素直に休んでいれば、ああはならなかったのではないか。現場に多大な迷惑をかけ、たくさん心配をさせてしまったことに大きな後悔と罪悪感を抱く。

しかしナマエが考えている以上に、そこに関してはあちら側は気にしていないようだった。

今後ナマエが独自のデザイナー展開をしていくのであれば、あそこまでの多忙な毎日とはならない。あくまで今回はそのような環境に慣れ現場の動きを把握するための三ヶ月であった。もちろん、活動していく中でナマエもあのような環境で動き回ることはこの先も何度もあるだろう。が、今回の一件で何かを言われることは特になかったし、ナマエの評価が下がることもなかった。

ナマエが日本へ帰国すると同時に、角名も海外遠征から帰ってきていた。ここからは角名も日本に留まることになる。例年ならばまた次の試合に向けての遠征等があるが、今年は、いつもとは少し違う。

今年度の日本代表に招集されるとなると、誰もが見据えるのは、もちろん夏に行われるあの大会である。

四年に一度のみ開催される、誰しもが耳にする世界中を巻き込んだスポーツの祭典。そして今回の開催国は日本、都市は東京。自国で行われるオリンピックなんてそうそうない。人生で二度あるかないかだ。例え二度目があったとしても、自身の競技キャリアが続いているうちに行われる事はありえないだろう。

大きな国際大会は数多くある。オリンピックだけではなく、世界選手権やアジア選手権等もあるし、毎年開催されるネーションズリーグだって人気が高い。

バレーボールのみでなく、どの競技であっても注目されるリーグなんて何個もあるのに、なぜオリンピックだけこんなにも特別感があるのだろう。選手にとっての目の前の一戦一戦の価値に変わりはないはずだ。しかし明らかに、普段その競技に興味を向けていない層からも注目が集まるのは事実だ。多くの人々がなぜこんなにもオリンピックを特別視するのか。だからこそなのか選手も嫌でも少なからず意識を向けてしまう。それが角名にとってもまた悔しいが事実だった。

今年は一度に二十七人が日本代表として招集されるが、そのうちトップリーグの出場登録ができるのはせいぜい十数人。大会によりその人数も変わってくる。確かなことは、その年の代表だからといって全員が全員出られるわけではないということだ。

日本の代表として大会でコートに立つということは、共に集められ合宿を行い、国内で試合をし活動をするが、その先の海外での試合には足を踏み入れられず涙を飲む仲間の上に立つということだ。

その選手個人の戦力はもちろんだが、監督の方針、チームのコンセプト、他の選手との相性等、様々なものが加味され慎重に決められていく。次に進める者とそうでない者のラインをはっきり引かれる。スポーツというものは、試合での勝敗以外においてもいつだって結果が解りやすくシビアなものなのだ。

そして先日のリーグ結果を踏まえ、この次に行われるオリンピックの登録メンバーが選ばれた。すでに先日までのリーグに出られた絞られてきた選手の中から、さらに少ない十二人に絞られる。


「おかえりー、もう温め直したらできるからもうちょっと待っ……わっ」


ナマエの言葉を遮りながら、無理矢理後ろから強く抱きついた。台所では危ないからと釘を刺されていたが、角名はそれもお構なしだ。いつものように危ないと声をかけようとしたナマエだったが、どこか引っかかる違和感にそれを口に出す事はやめた。


「……倫太郎?」


しっかりと腹に腕を回され、肩に顔を埋められているナマエからは角名の表情は見えない。温めていた鍋の火を止め、ナマエが体を回し角名に向き合うと、角名は一度触れるだけの柔らかなキスを落とす。それからいつも通りに鍋の中身を覗き込んで「美味しそう」と笑顔で告げたあと、着替えてくると言って去っていった。

先ほど感じた違和感を拭うことはできないまま、首を傾げながらももう一度ナマエは鍋を温めるために火をつけた。





梅雨真っ只中の束の間の晴れの日。買い物日和だということでナマエは近くのスーパーまで運動がてら徒歩で行っていた。

夏がもうすぐそこまで来ているため、雲の量は多いが日差しはとても強い。もっと日焼け止めをしっかり塗ってくるべきだったと思いながら、左手に下げたビニール袋を右手に持ち替える。

俺も行こうかと角名も言ってくれたが、角名は連日の練習でナマエが見てもわかるくらいに疲労が溜まっている様子だった。あまり量はないし、近いから大丈夫だと告げると、素直に気をつけてと送り出してくれる。

帰宅後すぐに食べられるアイスとかも買ってくれば良かったと思い、すぐ近くのコンビニに寄ったナマエがスマホで「コンビニでアイス買うけど倫太郎は何がいい?」と確認しようとしたところで、家を出る前に開きっぱなしにしていたTwitterの画面が表示された。売り場に向かうがてらトレンドをチェックする。するとそこには、こんな昼間にも関わらず男子バレーボールのワードがあった。

あ、バレーだ、なんだろう。ナマエはそうやって特別何も考えずにタップをした。瞬時にズラッと並んだ記事に反応する人々のツイートに軽く目を通す。出てきた記事の見出しと、ファンたちの歓喜と落胆。その中のとあるツイートに思わずスクロールの指を止めた。

『東京オリンピックを戦うことになる男子バレーボール日本代表チーム・天照JAPANの出場内定選手12人を発表。』

その記事を引用しているツイートのアイコンには角名の姿があった。そのツイートには、涙を流す絵文字と共に「角名くんなんでオリンピック出ないの〜」と綴られている。

恐る恐る記事を確認すると、そこには確かに内定メンバーの一覧が載っていた。代表として見慣れたメンバーの顔写真が、身長と所属チームと共にズラリと並べられている。

その中に角名の姿はなかった。『ついこの間まで行われていた海外リーグに出場していたメンバーでは惜しくも五人が落選』という文字の中に、角名の名前がある。

すみません、と後ろからかけられた声に慌ててスマホから目を離す。謝りながら端に避けた。コンビニの狭い通路で立ち止まっていては迷惑になる。ここに何を買うためにきたんだっけ。当初の目的がうまく思い出せない。ナマエは結局そのままそそくさと店内を後にした。

ただいま、と控えめに声をかけても角名からの返事はなかった。静かにリビングへと続く扉を開ければ、角名はソファに横になり仰向けに転がっている。腕に覆われ顔は見えないが、おそらく寝ているのだろう。買ってきた食材たちを物音を立てないように冷蔵庫に閉まった。

狭いソファは角名一人が横になると、もうナマエが寝転がれるスペースはない。いつも二人で重なって無理やり寝ている。角名の上に乗っかるようにして、ナマエがうつ伏せに転がった。そこでやっと角名がナマエの存在に気付く。発されたおかえり、という声は若干掠れていた。


「……え、どうしたの」

「…………」

「……ナマエ?」


何も言わず、しがみつくようにがっしりと腕を回してくるナマエに、角名は何かあったのかと焦りながら僅かに上半身を起こした。角名に釣られ、そこでナマエも顔を上げる。


「なんで昨日、言ってくれなかったの」


その一言だけで全てを悟った角名が「ああ」と少し気まずそうに視線を逸らした。しばらく無言が続く。角名がどうにかこの空気を変える為に口を動かそうとした時、それよりも早く被せるようにナマエが話し出した。


「自分の理想を勝手に他者に押し付けるのは良くない」

「……なんの話?」

「でも倫太郎には言っておきたいの」


真っ直ぐに、射抜くように角名のことを見つめた。角名もそんなナマエから視線を逸らせない。


「私は、倫太郎がオリンピックで試合をしてるところが見たい」


にっこりと笑ってみせたナマエに、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする。角名の予想とは真逆の言葉だった。残念だったねとか、落ち込まないでとか、そういう言葉がくるものだと思っていたのだ。現に友人やチームメイト、ネット上のファンからはそのような言葉を何度も貰っている。

惜しかったねと、自分のことでもないのに自分勝手に残念がり、気持ちを代弁され、落胆される。


「純粋に私も倫太郎のファンとしてすごく悔しい……悔しいよね?」

「まぁ」

「だよね。あと一歩だったのに。これ以外のリーグもたくさんあるけどさ、やっぱオリンピックってみんなが見るじゃん」

「そうだね」


角名は高校二年生の時の、春高に負けた後のナマエとのやりとりを思い出した。負けたことに落ち込んではいなかった。しかし、勝てなかったことに悔しさは感じていた。それと同じだ。そう思った。

選ばれなかったことは確かに悔しかった。しかし、これを残念なことだとは自分では思っていなかった。

その場所を目指していなかったわけでも、選ばれないだろうと諦めていたわけでもなく、今の時点で既に次の自分のやるべきことが見えていたからだ。あの時と、同じだった。

言葉にできないほどの悔しい気持ちは抱えても、残念がっているのは周りだけで、選手達はみんなすぐに次の目標に向けて前を向いていた。立ち止まっている暇なんてこれっぽっちも無かった。次の目標までの期限はその瞬間からインターバルなしに迫ってくる。今もそうだ。他人に勝手に残念がられても困る。

下を向いている時間も、心をふらつかせている時間もない。角名の昨日からどこかもやがかかったようなスッキリとしなかった頭がパッとクリアになる。

悔しいねと言いながらも笑っているナマエは、やはりただ真っ直ぐに角名のこの先を信じているのだ。


「パリもあるよね」


同じ事をもしも他人に言われれば、ふざけるなと冷たく言い放ってしまいたくなるほどの無責任な期待を込めた発言も、ナマエが発することでのみ背中を押す大きな追い風となる。


「ははっ」


思わず角名も笑ってしまった。ナマエの背中に腕を回し、しっかりと落ちないように引き寄せる。

だって倫太郎ってバレー好きでしょと、さも当たり前のことのように言い放ってくれたあの日、ナマエに出会えたことを角名は柄にもなく幸運だと感じたことを思い出した。あれから何年が経ったって、ナマエの姿勢も、角名の心境も変わることなく二人でこうしていられている。

足を止めようだなんて思わない。下を向こうとも思わない。それをナマエも角名も許さない。
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