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直接言葉は交わさずとも、相手がどこかで努力を積んでいることを確信しているからこそ、強気に前を向ける日々をそれぞれの土地で送れている。

前回、そして今回の二ヶ月半。だいぶこの異国の土地にも慣れてきた。華やかなパリの街は歴史情緒あふれる世界中の憧れの都市だ。道を行く人々の活気あふれる様を見ているだけで心が躍る。

遠くに聞こえる教会の鐘の音を合図に本日の就業を終えた。暗闇に染まることなく街頭に照らされる街並みは、自分をドラマの主人公か何かかと錯覚させるほどに美しく幻想的だ。しかし、もう大分深夜である。ヘトヘトの体に鞭を打つようにして、借りているウィークリーマンションへと襲いくる睡魔と戦いながら向かう。

こんなにも素晴らしい街にいるのになにもできないなんて。と、思いながらも、そこに関しての不満は実は特になかった。はっきりとした明確な目的があり、そのためにここにいるからだ。遊び半分できているわけではない。だからこそ朝から晩まで、決して楽ではない環境でも意欲的に参加ができる。

とはいえ、やはりどれだけ志を上に持とうが、やる気があろうが、疲労というのは知らぬ間に自分の中の様々な部分を日に日に削っていく。日本から持ってきている頭痛薬で無理やり打ち消していたはずの頭痛は、少し前から薬の効果を持ってしても抑えきれないようになっていた。

誰もが慌てふためく忙しさで常にその場全体が動いている。コレクションに向けての現場サポートは、現地での市場の動きや各ブランドのトレンドのデザイン、売り出し方を一気に吸収できる最高の機会であることに間違いはなく、日々とても勉強になってはいるが、それを楽しめるほどの余裕と慣れが今のナマエにはないのもまた事実だった。


「……大丈夫かい?」

「大丈夫、大丈夫」


ナマエの笑顔が頼りないものすぎたせいか、見るに見兼ねて声をかけてきた相手はナマエの言葉を信じずに疑うような眼差しを送る。それに苦笑いで返して、逃げるようにその場を去った。

前もこうだったじゃないか。追い詰められると弱い自分が情けない。前回は体調ではなく精神がやられていた。東京駅に向かって、そのまま倫太郎のところまで行こうとしてしまったのが懐かしいとともに、自分がこういう時にうまく一人で立てないこと、すぐに誰かに頼ってしまいそうになることを知って少しショックだ。

倫太郎と話がしたい。そうは思ってもすぐにできないのが現実だ。角名は今イタリアにいる。日本より距離はうんと近く、時差も少ない土地なのでその点についてはいくらか余裕があるが、しっかりと今年も代表に召集され、海外の土地で現在必死にリーグを戦っている角名に余計な心配はかけられない。

フラつく体と重たい頭に気づかぬふりをしながら、鞭を打つように休憩を終えた。

きっとすぐに治る。あと一週間半頑張れば帰国となる。それに明日さえ乗り切れば明後日は休みだ。一日寝潰して体力を回復させれば、もうその次の日からは大丈夫だ。自身に暗示をかけるように何度もそう考えながら、購入したエナジードリンクを勢いよく体に流した。


「ナマエがいない、どこだ?」


その場がざわついたのは翌日の昼過ぎのことだった。リストに書かれていたものを取りに行ったはずのナマエが姿を消した。現場の数人で探し回ったところ、ナマエはリストを右手にしっかりと持ったまま倉庫の隅にしゃがみ込んでいた。


「ナマエ!」

「……すみません」

「すごい熱じゃない!どうしてこんなになるまで放っておいたの!」


駆けつけたドイツ出身のここでできたナマエの友人兼同僚が慌てながら怒るように言う。仕事の事に対してではなく、ナマエの体調を心配してのことだとは、その後に続いた「現場のことは私たちに任せて早く帰ってしっかり休みな」という言葉で分かった。

さすがのナマエでもここで大丈夫ですだなんて言えない。申し訳ない気持ちと悔しい気持ちを抱えながらタクシーに乗り込み、転がるように寝転んだベッドの上で不甲斐なさに押しつぶされる。

せめて服は着替えて、飲み物だけは今のうちにベッドの脇にでも置いておこうと判断したナマエはそれをすぐに行動に移し、考えたいことなんて山ほどあるが、とにもかくにも体を休めることを第一優先とした。

目が覚めると窓の外は既に暗くなっていた。六時間ほど寝ただろうか。昼寝にしてはずいぶんと長い。あの時間からそんなに眠れるということは、自分が思っていたよりも相当やられてしまっていたということだ。頭痛はだいぶ軽くなったが、体は相変わらずだるいままだった。 

傍に置いていたペットボトルの水を口に含み、体温計を差し込みながらスマホで何か連絡は来ていないかと確認する。同僚から今日の仕事は無事に一通り終えたからなにも心配せず休んでいてねとメッセージが来ていた。そして、角名からも。時間ができたら教えて欲しいという内容だった。明日が休みであることは事前に伝えていたため、久しぶりに通話でもしようとのことだろう。

ピピっと軽快な音を立てた体温計を確認すると、まだまだ38.5℃という高い数値が刻まれている。解熱剤を飲み、再び布団を被った。角名への返信はもう一眠りしてからにする。


「……なんか声おかしくない?」


角名が違和感に気がついたのは、通話を初めてから三十秒程度しか経っていない時のことだ。まだ一言二言しか話していないのに、電話越しでもこんなにも早く気がつくことができる。


「あー、ちょっと風邪ひいて」

「平気なの?」

「……うん」


煮え切らない返事に角名がため息を吐く。ナマエは嘘が下手だ。熱は?と聞いた角名に、そんなに高くないから大丈夫と言ったせいで、熱があることはすぐにバレた。


「正直に言って」

「……だいぶ下がったんだよ」

「そうじゃなくて数字で」

「37.8℃?」

「だいぶ下がってそれってどういうことなの」


電話越しにも角名が怒っていることを察知したナマエは、咄嗟に「でも今日いっぱい寝たし、明日も休みで一日中寝られるから明後日にはもう回復するよ」と言う。が、そういう問題ではない。角名はわざとナマエに聞こえるように大きく息を吐いた。


「どうせ体調悪いのに我慢し続けたんでしょ」

「…………」


無言が何よりもの肯定だった。「こうなるまで我慢し続けるのも良くはないけど、俺が怒ってるのはもっと早く言ってくれなかったことだよ」と角名は続ける。

そして、そう言いながら自らの考えをまとめるように角名は思った。自分が今こんなにも怒り、そして同時に落ち込んでいるのは、ナマエがもっと早くに言ってくれなかったことに対してではなく、例え早く言ってくれていたとしても頑張れ大丈夫かと声をかける事しか自分に出来ることは何もなく、こうしてきちんと話してくれた今だって、弱るナマエの元へは行けないことだと。


「とりあえず、今日はもう早く寝たほうがいいよ。薬は?ちゃんとある?水分だけはしっかり取るようにして」

「うん。いっぱい持ってきたから大丈夫。心配かけてごめん」

「熱が下がったら……下がらなくても、スタンプだけでも何でもいいからこまめに連絡しておいて。明日はまた俺いつ返事できるかわかんないけど、見れる時に確認はするようにするから」

「ごめん。でも平気だよ。本当にもうピークは超えて少しずつ落ち着いてきてるし大丈夫だから、倫太郎はそっちに集中して」

「集中したくてもできなくなるから連絡してって言ってんの」

「……分かった」


今現在の自分の立ち位置に勝手に苛ついているだけなのに、これではナマエを責めているように感じられてしまうだろうか。角名は電話に入らないように小さく音の無いため息を吐く。

ナマエにももっと我慢せずにいて欲しいとは思っているけど、いつもこうなってしまうのはナマエの性格だけではなくて、そうさせてあげられない環境に自分がいるせいなのもある。わかっていてもどうしようもなく、毎回こうして声をかけることしかできないのがもどかしい。きっとナマエも自分に対して同じようなことを感じているんだろう。

お互いにその気持ちがわかるからこそ、逆に何も言い出せなくなる。言ったところで、言われたところで何も出来ないことを解っているからだ。

角名もナマエも、頼るにはお互いの距離がありすぎる。だからこそこうして抱え込み、無理やり飲み込んでいくしかない。

角名は基本的にさっぱりとしていて他人に情をかけすぎない性格に見える。が、しかしナマエにだけは違う。冷静に判断し、冷静に自分の立場を考え、いつだってのめり込み過ぎず冷静に他人との適切な距離を図れるはずなのに。

早く会いたいと思うことが力に変わるのと同時に、どこか申し訳なくもなる。ナマエも角名と同じように考えている。相手のおかげで自分はかなり勇気を与えられているが、向こうにとっての自分は一体どうなのだろう。何も出来ない自分が何を与えられるのか。進むべき道の障害になってはいないだろうか。

聞きたいけれど、聞き出せない。お互いに顔を合わせ直接その反応を伺うのを恐怖に感じているからである。
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