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蒸し暑い夏が猛威を奮う中、テレビ画面越しに映る知った顔を見つめた。侑は高校を卒業してそのままVリーグへと足を進め、今も日本の代表としてトップ選手の活躍を続けていた。

うるさく、余計なことも多々言うので煩わしく思うこともある。それでも侑が角名のことでナマエに絡んでくることは良くも悪くも一番多かった。会うことは少なくなったが、今でもたまにメッセージのやりとりをする。嬉しそうにメダルを首へとかけるその姿を見ていると、友人としての誇らしさと尊敬がグンと押し寄せてくる。

大歓声の中、東京オリンピックはバレーボール競技の幕を下ろした。


「うわ、失敗した。……倫太郎、どっち食べる?」

「聞くなよそれ」

「だよね。はい」

「いいよ、こっちで」


呆れたように眉を顰めたはずの角名の手には、どう考えても食べにくい形で折られたチューペットが握られている。一本は食べきれないからといつも二人で割っているのだが、ナマエは未だコツが掴めないようで、うまく折れずに揶揄われてばかりいた。

侑くんの最後のドヤ顔すごかったねと笑ったナマエにニヤリと口角を上げ、角名は「それ侑に送っておく」と言いメッセージを立ち上げる。ついこの間まで共に練習を行い、同じコートで戦っていたメンバーが画面の向こうで楽しそうに試合をしている。それに全く虚しさを感じないかと言われると、やはり、感じないとは言い切れない。とても。

角名が噛み付いたチューペットがシャクっと涼やかな音を立てる。先ほど冷凍庫から取り出したばかりなのに既に溶け始めていた。

そもそも代表として招集されたことがなかった頃は、いつも国際試合の様子をこうしてテレビやネットの配信で確認していた。国外のさまざまな選手たちとの試合は厳しい面も多々あるが、そんなことよりも楽しそうだなと思う。しかし、代表に選ばれなかった事が悔しいとはその時点では思っていなかった気がする。いつか自分も戦ってみたいとは、確かに思っていたが。

角名の隣で「尾白先輩も変わってないなー」と笑うナマエに同意を示しながら、もう一度テレビ画面を確認する。

高校時代のチームメイトで集まり、治の店で試合の中継を共に見ようという日があった。もちろん角名にも声はかかったが、それはやむなく断った。たとえオリンピックが開催されていようが、代表選手たちが動いていようが、それは招集されていない選手たちには直接は関係のないことだ。練習や所属チームでの活動は通常通り行われる。

それにこの五輪登録選手としての十二人には選ばれなくても、角名の代表としての今年度の活動はまだ終わってはいないのだ。この祭典が終わってすぐ、一ヶ月後の秋にはアジア選手権が控えている。十二人には選ばれなかったからといって、休むことも立ち止まることもスケジュール的にも許されないのである。


「オリンピックはチケット当たらなくて取れなかったけど、次の試合は行けるから嬉しいな」

「え、取ったの?」

「うん、先着頑張った」


聞いてないんだけど、と驚いた様子で角名がナマエに確認すると、ナマエはしてやったりというような笑みを浮かべ、「友達と一緒に見に行こうってずっと計画してたの」と楽しそうに告げた。


「席もここら辺にしようって事前に決めてたし、発売と同時に取ったから、アリーナのすごい良い席確保できたよ」

「それ絶対コートから見えるじゃん」

「見えるなんてもんじゃないところを確保しました」

「集中できねー」

「倫太郎がそんなことで集中乱さないでしょ」


俺が選ばれる前提なんだ?ということを角名はナマエに聞くことはしなかった。まだ現時点では出場メンバーはもちろん発表されていない。五輪の十二人よりは少し枠は増えるものの、選ばれない可能性だって大いにあるのだ。それでも二人ともその可能性に関しては捨てたかのような会話を繰り広げ続けた。

これからは何があろうが、そのままひた走る。ナマエがそれを望んでくれていることが伝わってくる。そして何よりも、角名自身が一番そうしたいと強く思えた。





千葉にて行われてたアジア選手権大会が無事に閉幕した。それと同時に、初夏ぶりに代表のユニフォームを纏った角名も今年度の代表としての活動を終えることとなる。

それと同じタイミングで、進めていた製作を終えたナマエの元にある連絡が来た。日が暮れるのも随分と早くなってきた、空気の澄んだ秋の夕暮れ時のことだった。

少し前から、いや、話のみならば以前パリに行った時からずっと持ちかけられている。興味はないかと言われてきた案件がやっとのことで先方の環境も整ったらしく、今度こそ本格的に進めていかないかという誘いの連絡だった。

国内で取り掛かっていた案件はほぼ終わりつつある。舞い込んでくる仕事のほとんどが海外向けのものなのは、国内で留まらないほうがいいとの各方面からの協力あってのことだ。コツコツとキャリアを積んできたが、それでもまだまだ業界内じゃ若手の部類は脱していない。こんな自分が本当にいきなり大型の案件や海外での活動なんて出来るのかと、ワクワクすると同時にナマエが不安になるのは仕方がないことだろう。まだ知らぬ広い世界に足を踏み出すときは、いつだって興奮と感動と勢いと、そして相当な恐怖が伴うものだ。


「いずれナマエはそうやってちゃんと見出されていくんだろうなって思ってた」

「できるかなぁ……楽しみだけど不安だ。ドキドキする」

「みんなそうでしょ」

「うん」

「無敵の精神の持ち主以外は普通全員そうだって」


角名は、「ナマエは猪突猛進に見えて意外としっかり後先考えちゃうタイプだから」とやや揶揄うように笑い、手元の食前酒を一気に傾けた。

薄暗い空間に優雅なクラシックが流れる店内は、スタッフも周りの客も落ち着いていて一切の不快感がない。窓の外に広がる夜景がチラチラと視界を彩る。今は暗くて見えないが、ここは富士山が綺麗に見えることで有名である。運ばれてきた前菜に手をつけながら、角名が静かに「いつ行くことになるの?」と言った。

向こうからは今すぐにでも来て良いと言われている。が、今回は今までのような短期滞在ではなくなるはずだ。なのでそれなりにこちらも準備等があるだろうし、早くても来月、遅くても来年すぐくらいまでにはとのことだった。そう言われるとだいぶ急いだ動き出しのようにも思われるかもしれないが、早いうちから声はかかっていたし、そこまで延ばさないだろうが最悪来年からとなれば特別急なことでもない。そっか、と頷いた角名が続けて「これ美味しい」と言ったのに、ナマエも「そうだね」と同意を示した。

その後はその話題を出すことなく食事は進み、互いに普段とは違う手のこんだメニューに舌鼓を打った。程よく酒も入り、気分は最高と言っても過言ではない。

勢いよく倒れ込む。吸い込まれるように体がゆっくりと沈んでいく。ふかふかのベッドが全身を優しく包み込んだ。


「しあわせー」

「部屋も取っておいてよかった」

「ほんと贅沢ー。家すぐそこなのに」

「こんな気分じゃすぐそこまで帰るのすらだるい」


やっとのことでお互いに時間の余裕が出来たとはいえ、遠出をすることまではできない。一泊で急いでどこかに行くのなら、近場でゆっくりと美味しいものでも食べようと言ったのはナマエだったが、ディナーだけして帰ろうと言っていたところをせっかくだから泊まってしまおうと提案したのは角名からだった。

ゴロンと寝返りをうち、仰向けになると同時に角名がナマエのところへやってくる。一度覆い被さるように乗り上がり優しくキスを落とすと、そのまま自然な流れで手を取りナマエを起き上がらせた。


「ベッドの上にばっか居るのはもったいないからこっちきなよ。せっかくこんな広いのに」

「そうだけど、なんか落ち着かなくない?慣れないんだよ」

「それ、いつも言ってる」


軽く笑い飛ばした角名は、テーブルの上に置かれたウェルカムドリンクのシャンパンを開け、ナマエの持つ冷たいグラスにしゅわしゅわと弾けるそれを注いだ。

いつも小さなソファに体を詰め込むようにして座っている二人からすれば、このソファは大きすぎるとも言える。ぶつけ合ったグラスが、二人で過ごすには贅沢なこの室内にカンと心地の良い音を響かせた。アルコールは強すぎることもなく、甘いのにスッキリとしていて、先程のディナーでお腹が膨れていてもとても飲みやすかった。


「広い。美味しい。凄い。最高」

「語彙力全然ない」


揶揄うように笑った角名に寄りかかりながら幸せを噛み締める。こんなにも広い部屋なのに、こうしてずっと二人でくっついていては全然使用面積が埋まっていかない。


「そういえば明日ルームサービスのモーニング頼んでおいたから、朝ちゃんと起きてよ」

「え!?うそ、ここのモーニング食べにきてみたかったの!」

「前にそう言ってたなと思って。どうせなら二人で部屋で食べるほうが良くない?」

「絶対良いー!早く朝にならないかなあ」


ほっぺたを両手で押さえるようにして、無邪気な子供のように喜びを表現するナマエの手を取って、その甲に小さく口付ける。


「そんなに早く朝になられても俺は困るんだけど」

「もったいないから目一杯楽しまなきゃね」

「とりあえず、これ飲み終わったら一回ジェットバス入ってみようよ」


グラスを傾けながらお互いの腰にゆっくりと片手を回しあう。程よいアルコールが感情の制御を少しずつ麻痺させ心を弾まさせた。いつもとは少し違う静かで優美な空間に、二人でしゅわしゅわと溶けていく。
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