02



「そこ、少しどいてもらえませんか」

「……はい?」


耳に刺していたイヤホンを引き抜き、ゆったりと目を開けたナマエを見下ろしているのは、陽が当たったことで若干の赤みが強調された黒髪の似合う他クラスの男子だった。

廊下で何度かすれ違ったことがあるのみで、もちろん交流はない。高校一年生にしてはとても背が高く、部活をしているらしいので筋肉はしっかりとついているはずなのに、がっしりとした印象は決してなく、しかし細すぎもしない。切長のクールで特徴的な瞳は、言葉を発さずとも彼自身の全てを物語っている。大袈裟な仕草や、何か特別なことをしなくても、立ち姿と視線だけで人を魅了できるアンニュイな顔立ち。ナマエは彼の持つパーツの一つ一つがとても魅力的だと思っていた。可能ならばいつか自身の作品のモデルになってもらいたい。そう思える人物だった。


「聞こえてます?」

「……すみません、何ですか」

「そこ、退いてって言ってんの」


若干機嫌が悪そうなその男は、眉間に深く皺を寄せ徐々に語尾を強めていく。ナマエが言われた通りに椅子を退かしズレてみせれば、その男はダルそうにしゃがみこみ机の中を覗いた後、再びゆっくり立ち上がった。


「さっきまでここで授業受けてたんだよね?」

「うん……えっと、はい」

「その前の時間にここ使ってたんだけど、教科書見なかった?」

「教科書……あっ!」


途端に慌て出すナマエに男が疑わしげな視線を飛ばす。ナマエは先ほどまで枕代わりにしていた教科書を持ち上げ、汚れがないかと表紙を素早く確認した。


「これ!これ、入ってて!……今日教科書忘れちゃって、ちょっと、お借りしました」


寝起きの掠れた声でそう言ったナマエが、「あなたのだったんですね」と言いながら教科書を男に差し出す。勝手に使ったことにも後ろめたさを感じているのに、寝落ちてしまったことでほぼわざとではないにしろ、事実として枕にしてしまっていたところをまさか本人に見られてしまうとは。内心パニックになりながら、バクバクと心臓を激しく動かし背中に冷や汗をかいた。

ナマエが思った通りに、勝手に使った挙句枕にするとはどういうことだと、口にせずともそう訴える男の視線から逃れるようにナマエは目を逸らした。


「……ごめんなさい。勝手に使って、さらに寝てしまって。あの、今度お詫びするのでなんでも言ってください。お菓子とか持っていくので」

「別に面倒だからいいよ」


冷たい声で吐き捨てるように男はそう告げた。当たり前であろう。自身が置き忘れてしまったのも良くなかったとはいえ、汚れてはいないものの見ず知らずの他クラスの女子に、まだ新しい教科書を勝手に枕にされていたのだ。


「でも、かどなくんに悪いし……」


しかし、早口でそう言ったナマエに男はピタリと動きを止める。それを不思議に思ったのか、かどなくん?と様子を伺うようにもう一度ナマエが小さく呟いた。


「かどな?」

「え?」

「いや、まぁいいか」


何がいいのかわからないとでもいうように頭の上にハテナマークを浮かべるナマエに、男は僅かに口角を上げた。ほんの少し息を吐くように笑って、「じゃあ、今度何か持ってきてよ。三組にいるから」とだけ言ってそそくさと背を向ける。

再び誰もいなくなった静かな化学室。再生しっぱなしのウォークマンに繋がったイヤホンからは、マル・マル・モリ・モリの愉快な音楽が僅かに音漏れする。放課後と呼ばれる時間に突入してからはもう結構な時間が経っていた。

友人たちは誰も起こしてくれなかったのか。それとも起こしてくれたけれど自分が起きなかっただけなのだろうか。何となく後者な気がするから申し訳ない。それにしても凄く失礼なことをしてしまった。近くで見てもあの人背高かったな。お菓子、何を持っていこう。甘いものとか食べるんだろうか。

いろんなことをぐるぐると考えながら、ナマエは筆箱を握りしめ、足早に教室を後にした。





早くパイレーツ・オブ・カリビアンの新作見に行かなきゃ、来月にはハリーポッターの死の秘宝が始まっちゃうよ。そんな会話で盛り上がるクラスメイトが「ナマエも見にいく?」と話を振る。それに「私はパラダイスキスも見たい」と適当に返し、ナマエは三組へと足を進めた。

一年生の春である。まだ他クラスとの交流もそこまでない。教室の後ろ扉から中を恐る恐る覗き込んだナマエは、窓際に一際目立つ背の高さの男を見つけた。

今日も黒髪が柔らかく差し込む日光によってわずかに赤く照らされている。一見きつく、怖そうな雰囲気を醸し出している無表情なその姿。眉間に皺を寄せ不機嫌そうにしていた昨日の表情も思い出し、声をかけるのを僅かに躊躇した。

しかし、このままここにいては教室を覗いているだけのただの不審者だ。よし、行くぞ。ナマエはそう意気込み勢い良く一歩踏み出した。近くまで行くと、窓際でスマホを弄っていた男もナマエに気が付き顔を上げる。


「あ、マルモさん」

「…………はい?」

「昨日聴いてたでしょ。あんたの名前知らないし」

「ミョウジです。ミョウジナマエ」

「そう。で、何持ってきてくれたの?マルモさんは」


嫌味たらしくそう言った男にナマエは顔を顰めた。そしてその表情を見て、さらに男が愉快そうにする。


「かどなくん、なんか性格悪い」

「人の教科書勝手に使って枕にする方がヤバくない?」


軽く蔑むような言い方にムッとなるが、真実なので何も言い返せない。言葉に詰まったナマエは手に持っていた袋を突き出し、「昨日のお礼とお詫びです」と深々と頭を下げた。


「こんなに?」

「何買っていいのかわからなくてさ」

「お人好しの真面目だね。人の教科書の上で寝るくせに」


後半部分を言われなければ良い気分になれるのに。後半部分を付けたされると途端に馬鹿にされた気分になる。それも全てナマエが悪いということは本人も十二分にわかっているが。

居心地の悪くなったナマエは、「じゃあ、また」と、次の予定など無いにもかかわらずそう言ってさっさと教室を出た。男は視線でナマエの後ろ姿を扉まで見送った後、もう一度静かに袋の中身を確認した。チョコ、飴、グミ。他にも何種類かの、持ち運びに便利で食べやすそうな物ばかりがぎっしりと詰め込まれている。

マルモさん。ミョウジナマエ。忘れないようにと心の中で先ほど彼女が告げた名前を復唱した。


「このメルティーキッス冬の売れ残りが安売りされてるやつじゃん」


美味いからいいけど。あとこれ普通に買うと高いし。他のものもたくさん入ってるし。割引のシールを取ればいいのに、そのままにしてあるのは爪が甘いのか、何も考えていないのか。男はわずかに目を細め、口元を緩めた。とはいえ、他人からすれば無表情のままに見えるくらい微かなものである。

特別菓子類が好きなわけでも、自分のものだと意地を張るわけでもないが、これは食い物ときたら見境がなくなるチームメイトには見つからないようにしようと思った。
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