03



人間、一度存在を認識してしまえば何故だか不思議と目に入るようになる。あの背の高い男と廊下ですれ違うたびに、ナマエは特に意味もなく目で追ってしまっていた。

ある時誰もいない廊下でたまたま遭遇したナマエに声をかけたのは、意外にもその男の方からだった。ミョウジさんだ、と現実味を帯びた低く綺麗な耳触りの良い声が届く。男はナマエの名前をしっかりと覚えているようだった。


「間違えた、マルモさん」


男はあからさまに嫌味っぽく訂正してみせた。


「そっちが間違えなんですけど」


ナマエも不快だという態度を隠すことなく言い返す。


「そうだっけ」

「わざとでしょ!人の名前間違えるのは失礼だよ、かどなくん」

「……そうだね」


一体何が面白いのだろうか。また僅かに目を細めた男にナマエは口を尖らせる。部活に行くのか男はジャージ姿で、そのままくるりと背を向けた。


「ごめん突然話しかけて。またね、マルモさん」

「もー!違うってば!今度かどなくんのことも変な風に呼ぶからね!!」


ナマエの大きな声が廊下に響いた。ちょうど数メートル後ろを歩いてきていた教員が、「廊下ではもう少し静かにしましょう」と少し怒るように注意をする。男はそのやりとりを聞いて我慢できずに小さく吹き出した。しかし決して振り返ることはなく、笑ったことをナマエに知られることはなかった。





それからというもの、ナマエと男は顔を合わせるたびに挨拶をしたり、くだらないやりとりをしたりと、時間をかけ少しずつ仲を深めていった。出会い方は今思い返してもなんとも言えないが、意外にも波長が合うというか、今となっては気の合う友人というポジションにまでなりつつある。

ある日の五限目の終わり。六限目がもうすぐ始まる、授業間の短い休み時間。ナマエは化学の教科書を忘れてしまったことに気がついた。別のクラスの友達に借りにいけば良いのだが、どのクラスが今日化学があるかをまだ把握しきれていない。

どうしようかと悩んだところで、前に同じ曜日に化学の授業があったクラスが存在していたことを思い出した。あの男がいる三組である。


「化学の教科書貸してくれませんか……」

「また枕にするの?」

「しないしない、もうしない。誓います」

「マルモさんは他に友達いないの」

「いるよ、失礼な。でも今日化学があるクラスはここしか思いつかなかったんだもん」

「……しょうがないな」


男が渋々差し出した教科書を受け取り、嬉しそうに「ありがとうかどなくん!」と言って、ナマエは授業が始まってしまう前に急いで自分の教室へと戻っていった。

大人しそうな見た目をしているくせに、なんだかバタバタと騒がしい。ナマエが去っていった扉をしばらく見つめたあと、男はいつものようにスマホを取り出し、残り短い休み時間を、最近少しばかり飽きてきたmixiの他人のつぶやきを見ることに費やした。


「ほんと助かったよー、今日がっつり当たる日だったからさぁ」


そう話すナマエに、男は「それわかってるならちゃんと持ってきなよ」と揶揄い混じりに告げた。


「本当にそうだよね。気をつけなきゃ。またお菓子持ってくるね」

「もうあんなに大量にはいらないから」

「何が良かった?」

「あー、チョコ以外ならどれでもいいかな」

「チョコ苦手?」

「苦手ってわけじゃないけど、一人でそんなには食べないから」

「なるほどー」


じゃあかどなくんの好きな食べ物は何?ナマエがそう言ったのに被さるように、「あ!また角名が女子と仲良さそうに喋っとる!」と、教室の向こうから一際大きな声が飛んできた。

その声に男は眉間に皺を寄せる。元々吊り気味なのがさらに鋭い目つきになると結構な凄みがあるな、なんて呑気に思いながら、ナマエは目の前の男から名前の知らない彼のクラスメイトへと意識を移した。


「侑、うるさい」

「うるさいってなんや!珍しいやん。クラスの女子ともそんなに話してるとこ見たことあらへんし」

「話しかけられれば話してるよ」

「そういえばそうか。でもなぁ、角名はなぁ、最初自分から話しかけるっていうのが女子からしたらなんかしづらそうやしなぁ。お前顔怖いねん」

「それ普通に失礼なんだけど」

「でもあんたもそう思うやろ?」

「え……ま、まぁ」

「おい、否定しろよ。マルモさんは俺の味方じゃないの」

「でも性格とか人柄とか全然知らなかったら、きっかけがない限り私も自分からは話しかけにはいけないと思う」

「ほらー!!言われとんで角名ー!」


ぷぷぷと若干、いやほぼ確実に馬鹿にするように指をさし笑った侑と呼ばれた男の言葉に、ナマエはどこか違和感を覚える。なんだ?何がこんなに気になるんだろう。先ほどから何かが地味に引っかかっているものの、それが何なのかはピンとこない。

しかし、再度口を開いた侑と呼ばれる男の口から出た、「そういえば角名は知っとる?」という言葉を聞いて、ナマエは思わず「あー!!」と教室全体に響き渡るほどの大声で叫んだ。


「す、すな!?」

「何や、いきなりどうした」

「すなって言うの!?かどなじゃないの!?」

「ぶはっ、何言っとんのこの子。もしかしてお前かどなって呼ばれとんのか」

「あーもう黙って、侑ほんとうるさい」

「なんで俺が悪いみたくなっとんねん」


口を開けてパクパクと取り乱すナマエに、かどな――ではなく角名が笑いながらスマホを向けた。カシャっと気持ちの良い音が鳴り、一枚の写真が保存される。ナマエは未だに慌てた様子で、角名はそれを面白がり「人の名前を間違えるのは失礼なんじゃないの?」と煽るように言い放った。


「なんで今まで教えてくれなかったの!」

「いつ気付くかなと思って。案外気がつかないままだからこっちが驚いてた」

「もー最悪。恥ずかしい!心の中で笑ってたんでしょ、こいつアホだなって」


教科書の裏に書いてあった“角名“という文字を見て、完全に"かどな"だと思い込んでしまっていた。もう出会ってからだいぶ月日は経っている。何度も何度も会話をしたはずなのに。ナマエは悔しそうに下唇を噛んだ。


「よう知らんけど、お前ら仲ええんやな」


呆れたように笑った侑が帰りの支度をするべく席に戻っていった。角名もナマエから受け取った教科書をリュックにしまい、そしてゆっくりと腰を上げる。


「そういうことだからもう間違えないでよ。じゃあね、ミョウジさん」


侑に急かされ部活へと向かう角名を、ナマエは黙ったまま目で追った。角名は扉を出る直前、未だ立ちすくんだままのナマエを見てまた目を細める。切長の瞳がナマエを追いかけ、そして扉の向こうへと消えていった。

これが、じわじわと深められていたナマエと角名の仲が急速に縮まるきっかけとなる日であった。ドイツにて開催されたサッカーW杯で、なでしこJAPANが初めての優勝をし日本中を沸かせる少し前。テレビのアナログ放送が終わり地デジに完全移行するまで、あと約一ヶ月半を切った日のことである。
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