01
この街は今、熱狂の渦の中にある。ついこの間は建国記念日があり、街は今とは違う熱気に包まれていた。しかし、その記憶ももはや遠く思えてしまうほどに、行き交う人々の話題は現在この土地で行われている世界的な祭典に集中していた。
そんな中でも、その祭典とはまた別の事でここ数日間忙しく動いていたナマエたちは、どこに行っても混んでいるからとナマエの部屋でのんびりと過ごしていた。
「ナマエ、今日もたくさん人来てるってよ」
「ありがたいねー」
一応休みではあるものの、現場がどのような状況なのかは随時報告が来るようになっている。ほら見てと、同じメッセージグループに属しているのだからナマエはナマエで確認できるにもかかわらず、嬉しそうに笑いながらスマホを掲げたのはナマエの同僚兼友人であった。
スタッフから送られてきた写真にナマエも目を通す。展示物をきらきらとした眼差しで見つめる人、学び取ろうとしているように真剣な目つきでじっくり眺めている人、ほかにも様々な人々が今日も会場に訪れてくれているようだ。
「この個展が終わったらすぐにコレクションの準備だよね〜。忙しいなぁ。一年まじで早い」
「特にこっちに来てからは本当にそう思う」
「ナマエずーっと働いてるもんね。他に趣味とかないの?」
「ない。強いて言うなら今は仕事が趣味」
「かーっこいー」
若干茶化すようにそう言った友人に「ばかにしてるでしょ」と笑ったナマエは、テーブルの傍らに置いていたチョコレートを一粒手に取って口の中へと放り投げた。
「あっ、ねぇちょっと!それ大事に食べてよね!?スーパーとかに売ってるテキトーなチョコじゃないんだから!」
「わかってるよ。それにしても美味しいねこれ」
「LIONCEAUのだよ」
わざとらしく発音を良くする友人に眉を寄せながら、ナマエが「りよんそー?」と呟く。
「前言ったじゃん、日本人のショコラティエがやってる人気店のチョコだよ。展示会場のすぐ近くに店があるの」
「へー」
ナマエは甘さの程良いチョコレートを舌で転がしながら、この間取引先店舗の販売員も最近ハマっていてよく買いに行くのだと言っていたのを思い出した。せっかくだから今度自分も足を運んでみようと思いながら、疲れの溜まった体をグッと伸ばす。
「高校生の頃はメルティーキッスで高いと思ってたのに」
ナマエは友人の言葉に共感を覚え、ふふっと小さく笑みをこぼした。
「大人になったんだよ」
「うわー嫌だ嫌だ、なりたくないよ大人なんか」
「残念だけどもう手遅れよ」
コンビニの商品の中では少し高めのチョコを手に取る事も戸惑っていた。しかしあれから十年以上が経過した今では、有名ショコラティエのチョコレートをこうして普通に食べている。
子供の頃に比べて選択肢が広がるとともに、取捨選択を迫られ手離したものも多くある。それでも思い描いていた夢の延長線に立てている、立たせてもらっている今に、後悔も不満も不安もない。
「高校生ねぇ……」
しみじみと小さな声で言った友人は、「そういえばさあ」と何かを思いついたように顔を上げ、丸めていた背を伸ばした。
「ナマエは着うた何設定してた?」
「うわ、あったねそんなの」
「やばいよねー、あの頃ガラケーだよガラケー。私は加藤ミリヤと清水翔太だった」
いやソナポケだったかもしれん。と悩み出した友人に向かって、ナマエは「私はマルモのおきてのやつだったよ」と素直に答えた。
興奮したような上擦った声で、友人が「めっちゃ懐かしー!!」と返す。その後ろに見えた時計が十四時を表示したのを確認し、ナマエは傍らのリモコンを手に取りテレビをつけた。
「こんな時間から何見るの?」
「オリンピック」
「今それしかやってないよね。種目は?」
「バレーだよ、バレーボール。今日日本戦じゃん」
「あー……。私はあんまりオリンピック見てないからわかんないけど。ってか、あんたってそんなにバレー好きだったっけ?」
「別に特別詳しくもないんだけどね」
「へー」
特別詳しくはないと言いながらも、食い入るように画面を見つめるナマエを珍しそうに友人が見やる。彼女自身はその競技というよりも、そもそもスポーツ自体に興味がほとんど無いようで、一瞬だけテレビへ視線をやったあと、「年中仕事人間のナマエがエンタメに興味を示してるの久しぶりに見たなぁ」なんて言いながら、YouTubeで検索した懐メロまとめなる動画を流し始めた。
ナマエの真剣な眼差しと、テレビが映し出す緊張感の漂うパリ五輪バレーボール男子日本代表の幕開け試合。この場の空気に全くもって馴染まない、友人のスマートフォンから流れるマル・マル・モリ・モリ。
完全なるミスマッチだ。うるさいと普通ならば止めさせるだろう。しかしナマエはそれをしなかった。このメロディを聴くと何故だかツンと鼻の奥が痛んで、不意に泣きそうになってしまう。
「CM出てたから影山くんだけわかるけど、それ以外どっちの選手も全然わかんないなー」
「私ももう詳しくはわかんない」
それにしては随分と熱を込めた視線を送っているじゃないか、と友人は思う。ナマエは相変わらず特別好きなわけではないとか詳しくはないと言っているくせに、一切テレビから目を逸らそうとせず、しっかりと試合を目に焼き続けていた。
テーブルの下でギュッと握り締められたナマエの手のひらが、わずかに赤く染まっていく。下唇をゆるく噛みながら、何かに耐えるように、祈るように、そして喜ぶように、ひたすら画面を見つめた。
2024年。世界中が熱狂するオリンピック。年々注目度の高まる男子バレーボール。
ナマエは、ゆらりと静かに闘志を燃やし、射抜くような視線で敵を捉え、涼しげな表情でコートに立つ一人の人物から、決して目を離すことはしなかった。
最期に思い浮かべた
あなたは
プリムラみたいな
姿をしていた
まだ幼い芦田愛菜と鈴木福の可愛らしい歌声が頭の中を支配して、他の音が一切しなくなる。柔らかな白い光に包まれたように頭がぼーっとした。心も体も浮ついた不思議な現象の中に身を置いている感覚がする。
「あの、そこ少しどいてもらえませんか」
まばゆい夢から目覚めさせる、現実味を帯びた低く綺麗な耳触りの良い声がナマエに向けて発せられる。
「あの……」
それは、ドラマ『マルモのおきて』が一世を風靡していた2011年の春の出来事。二人は兵庫県にある稲荷崎高校に通い始めたばかりの一年生だった。