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まるで忙しいが口癖のようになっていた。初めての環境で、高校生の時のような生活のままはできやしない。お互い学生ではあるものの、トップクラスのスポーツに打ち込む選手と、課題や自主的な製作が大量にある服飾学生では、自分のために使える時間というものが限られてしまってくる。

かれこれ一ヶ月半は会えていないだろうか。ナマエは朝から夜まで平日は課題に追われ、角名は土日は練習試合や遠征に追われていた。夏休みが終わり季節が変わればインカレが近づいてくる。ナマエも時間が経てば経つほど課題の難易度が上がり、求められるクオリティも高くなってくる。嘘ではなく、お互い本当に忙しいのであるということはわかっているが、それでもやはり寂しいものは寂しく、会えないことに対しての不満や不安も多少は出てきてしまう。

やっとのことで予定が合った本日。二人は疲れた体を落ち着かせるように近場のカフェへと入った。久しぶりではあっても、せっかくだからどこかに行こうという気力までは湧いてこない。お互いの最寄駅のちょうど真ん中にある駅で、混み合ってはいない店舗を選んだ。


「最近どう?」

「忙しくて大変だけど、楽しいよ。やってみたいなって思ってたことがどんどんできるようになってってさ」


疲れたような笑顔を浮かべながらも楽しそうに言うナマエは、嘘ではなく心の底からそう思っているのだろう。角名も口角をあげ、「俺も、高校とは違ってレベルもまたうんと上がったけど、楽しいよ」と素直に返した。

大変だろうというのは覚悟していたが、服飾の専門学校がこんなにも忙しいのだとはナマエも思いはしなかった。高校の同級生から聞く大学生活とは全く訳が違う。製作が生活に追いつかない。最近は食事もほとんど作らず、買って終わることも多い。

角名は角名で、やることは高校の時と同じくバレーではあるが、大学はレベルがまた変わってくる。強豪校で活躍していた角名でも、やはり三年生や四年生もいる、大学という高校よりも大きな枠の中で活躍することは並の練習量や実力では厳しかった。

話したいことはたくさんあるはずなのに、なんだか何を話していいのかわからない。こんなふうに感じるのは初めてだった。話題がありそうでないのだ。疲れに押しつぶされていて、それに思考が偏ってしまっている。

こういう時に無理に話を広げようとすると危険なことはお互いに勘づいていた。場を保つためにくだらない話を繰り広げていく中で、少しずつ空気が固くなる。それを解そうとしてまた余計な話をしだす。それの繰り返しだ。お互い顔には出さないものの、心の中で考えたくはないことを考えてしまう。忙しいのに、疲れているのに、わざわざ時間を空けたけど、こんな感じなら無理に会わなくても良かったかもしれない、なんて。


「……とりあえず一回出る?」


不意に会話が止まって、しんと静まり返った。無言の時間が気まずいだなんて、付き合いたてのカップルではないのだし、そんなことを思う時期はもうとうに超えたはずだ。しかし、今は何か話してくれとお互いが思ってしまっている。ナマエの一言に、角名は言葉もなく頷いた。

二人揃って席を立つ。空になったコップを持って。そこに残る氷がカラカラと虚しい音を立てた。

次会えるのはいつになるかな。そう思いながらナマエは角名の隣を歩く。まだマフラーも手袋も必要ない。しかし、肌に触れる空気はひどく冷たく、指先の体温をどんどん奪っていく。

不意に横を向いた角名と目があった。思わず咄嗟に逸らしてしまう。ナマエのそっけない態度に、角名が口を開く。何か言いたいことがあるなら言いなよ。放たれた声は、いつもより少し低く、より無機質に思えた。


「何もないよ」

「じゃあなんで今、目逸らしたの」

「なんでもないって」


少しだけ声を張り上げてしまった。ナマエは内心焦るも、角名の表情は変わらない。


「……倫太郎、この先も忙しそうだから、またしばらく会えないのかなって」


何気なく発したその一言。それに返事が返ってこないことを不思議に思いながら角名の顔を見上げる。考えていることが読み取れない、どこか冷たい瞳にナマエも顔を強張らせた。思わず俯き視線を逸らす。


「俺のせいなんだ?」


角名はハッと短い息を吐き、自嘲に近い笑い方をした。その言葉に反論しようともう一度顔を上げるが、角名の冷めた視線に何も言えなくなってしまう。


「ごめんなさい、そうじゃなくて」

「……いや、良いよ。こっちこそごめん。頭冷やすために今日はもう帰る。またね」


目の前の駅に逃げるように入っていった角名を視線で追った。逃げるように、なんてそんなことを思ってしまったが、逃げているのはお互いさまだ。

ナマエはバッグの中からスマホを取り出し、角名とのトーク画面を開く。しかし何を送ったらいいのかわからずすぐにアプリを閉じた。

何も言えなかった。さっきの言い方は私が悪い。私が悪いのに。

ナマエは大きなため息を吐いて、もう一度アプリを開く。きっともう電車に乗ってしまっただろう角名に電話をかけるのは憚られたが、それでも構わず通話ボタンを押した。

耳に当てたスマホが鳴らしたコール音は、予想に反して十秒ほどで音を止めた。切られたのかと思ったが、画面を見ると繋がっている。倫太郎?そう恐る恐るナマエが名前を呼ぶと、後ろからふわりと突然何かが覆い被さって、ナマエは反射的に体を縮こませた。僅かな恐怖と驚きで、叫び声すら上がらない。


「ごめん」

「……り、倫太郎?」

「ごめん」


ぎゅっと抱きしめられ身動きが取れない。比較的利用者の少ない駅だとはいえ、流石に駅前は人が多い。こんなにも目立つことを角名は人前ではしたがらないということはナマエもよく理解していた。無理矢理その腕を解いて角名に向き合う。表情が読み辛い。しかし、どこか苦しそうな顔だった。


「私の言い方が悪かった。私こそごめん。倫太郎のせいじゃないよ。ごめん」


戻ってきてくれてありがとう。そう言ったナマエが角名の手を取って歩き出す。改札を抜け、タイミング良く到着していた電車に飛び乗った。

角名はナマエの考えていることが早々にわかったらしくされるがままに口を出さない。しばらく電車に揺られた。握っていた手のひらを緩めて、解けないようにお互いの指先を絡めあいしっかりと握り直す。少し痛いくらいに力の込められたそこに安心感を抱いた。


「――ッん」


ドアを開けた瞬間にナマエのことを抱き寄せた角名が後ろ手に扉を閉める。その素早い行動に対応しきれずバランスを崩すナマエを支えるようにして、角名が背中と後頭部に腕を回し、有無を言わさず口付けた。

角度を変えて何度も行われる急速なそれに抵抗しようともうまくできない。薄まっていく酸素がナマエの思考を鈍らせるが、角名がわざとらしく「玄関であんまり音立てると外にも響くよ」と言うので、下手に崩れ落ちることもできなかった。

ズルズルと押されるように部屋に移動する。そろそろどうにか抵抗しなければとナマエが焦ると同時に、角名がぴたりと動きを止めた。


「……り、たろ、いきなり」

「ごめん」

「いいけど」


そうじゃなくて、そうじゃなくて。ナマエは何度も心の中で唱える。


「私も、倫太郎も、どっちが悪いとかじゃないもんね。本当にごめん」

「もっと連絡とか、取れるようにする」

「でも本当に忙しいでしょ?」

「そうだけど、連絡さえできないほどではないよ。時間はないけど、よく考えれば全くない訳じゃない。さっき少しだけど考えた。忙しいのは本当だけど、それを言い訳にして相手を蔑ろにしたらダメだよね」


角名の言葉に同意を示すようにナマエも首を縦に振る。


「私ももっとやり方はたくさんあると思った。自分の事にいっぱいいっぱいで周り見えてなかったから」

「でも自分のことに集中したい時とか、本当に苦しい時は言って」

「うん」


優しく抱きしめてくれる角名にナマエが体を預ける。一度額にキスをして、角名が「でもさっき帰ろうとしたのは本当にごめん。一回ちゃんと頭冷やさないとって思ったからなんだけど、間違ってたと思う」と言い腕に力を込める。ナマエが顔を上げた。視線を合わせ、角名が控えめに微笑む。


「時間が経てば経つほどダメになる気がしてすぐに戻ってきたんだけど、そうして本当によかった」


二人の視線が交わって、自然と唇が重なる。当たり前のように会えていた高校生の時。忙しくはあったけれどまだお互いに余裕があった時。それまでとは違う状況になった。環境や状況が変わると訪れる困難や問題は、きっとこれから他にもたくさんあるのだろう。二人の目指す場所に近づけば近づくほどに。
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