誰そ彼の八月、可惜夜の九月


ほんの少し風が強く、それが掠める肌の表面がごく僅かに冷える。

背中に大粒の汗を流しながら、本番を迎えた蒸し暑さに耐えつつ何とかここへと訪れたあの日。二人が初めて顔を合わせた駅前を歩きながら、もう遠い出来事に思える、まだこの現象を把握しきれていなかった八月を思い返した。

今考えれば、本当に冷静ではなくなっていたと思う。角名は頭の中を整理するように一度軽く息を吐いた。あんなに暑い季節に、わざわざ自転車を漕いでこんなに遠くまで。普段なら絶対に絶対にしないことだ。それをなんの疑問にも思わず、あの日の俺はペダルを踏み出した。顔も見たことのない、たった一人の女の子に会うためだけに。

とても正常ではなかったと改めて角名は思う。それと同時に、それも仕方がないとも思えた。この世界はとても“正常”なんかじゃない。

あれから季節が変わるほどの月日が経ったのにもかかわらず、目の前に広がる景色は今もあの日と変わらないままだ。仕事帰りの疲れた顔をしたサラリーマン、横並びになり楽しそうに笑う学生たち、前を歩く子供を見守るように微笑みながら買い物袋を右手に下げる母親。その全てが止まっている。何もかもがあの日と同じまま、今日も変わらずそこにある。

“ありえない”景色を見慣れてしまったのは一体いつからだろう。受け入れられたのは、いつからだろう。

守月さんのことを自分勝手な理由で傷つけた日。あれからこの世界の受け入れ方も、自身の考え方も変わったように思う。あの出来事の後から確かに、非日常のこの世界があと一ヶ月だけは日常になるのだとしっかり受け止められた気がする。

角名は隣を歩く由佳にバレないように視線を向けた。彼女の楽しそうなその表情にももう慣れてしまった。この笑顔が常に隣にあり、自分だけが確認できるのも明日が最後だ。

気分良さそうに鼻歌を歌い、それに合わせてリズミカルに体を揺らす。そんな由佳の指先が角名のそれに触れた。


「あ、ごめん」


申し訳なさそうに素早く手を引っ込めた由佳。黙り込んだまま、その指の先に視線を向け続ける角名。

静かなままの角名の表情を確認するようにおそるおそる由佳が顔を上げた。じっと見つめてくる角名としっかりと真っ直ぐに目が合う。特に怒っているわけでも、迷惑がっているわけでもなさそうだった。


「角名くん……?」

「あのさ」

「なに?」

「……やっぱなんでもない」


僅かに気まずそうにしながらパッと視線を逸らし、そのぎこちなさを誤魔化すように角名は歩き出した。その後ろを駆けるようについていく。角名と由佳の身長差はだいぶある。つまり、歩幅もかなり違う。角名が普通に歩いてしまうと由佳は駆け足になるしかないのだ。


「角名くんっ」


数十メートルほど進んだところで、やっと真横に追いついた由佳が角名の手を取った。ハッとしたように角名がその手を振り払おうと自身の腕に力を入れる。それを阻止するために由佳もさらに強く握ってみせた。


「どうしたの」

「いや」

「何か言いかけてたでしょ」

「大した事じゃないよ」

「そういうこと言わずに、たとえくだらないことだとしてもちゃんと言ってよ。この期間はなんでも言うって約束したじゃん」

「…………」


若干気まずそうに口を噤む角名に、由佳はもう一度言い聞かせるように「角名くん」と名前を呼んでみせた。


「さっき、手、あのまま離さなくてもよかったのにって思って」

「え」

「……うそ」


ごめん。そう言った角名に由佳は少し頬を膨らませながら「嘘じゃないのに、そうやって誤魔化そうとするのダメだよ」と言って、角名の腕を掴んだままの手のひらを角名のそこに向けてスルスルと下ろし位置を変えていく。

ほんの少し強い風が、肌の露出した部分を僅かに冷やしていく。繋がれたそこだけは、お互いの体温が混ざり合って秋らしい気候になってきたそれをぐんと遠ざけていた。


「手、繋いでもいい?」


少し恥じらうように、由佳が視線を細かく左右に揺らしながら小さく呟く。


「ここまで自分でやっておいて、それ聞くんだ」


薄く笑いながら角名が揶揄うようにそう言った。


「一応聞いておかなきゃかなって」

「もう繋いでるじゃん」

「でもちゃんと確認しとこうって思ったの!いい?」

「いいけど」

「けど?」

「いいよ」

「うん」


触れたそこから伝わる熱がじわじわと全身までもをあたためていく。いつの間にやら風の冷たさもなにも気にならなくなった。むしろ、暑い。残暑というには生ぬるすぎるくらいに温度が増している。


「角名くんがあんなこと言ってくれるなんて、嬉しいなー」

「まじでどうかしてる。ああいうこと言い出すのは守月さんの役目なのに」

「なにそれ」

「そのままの意味」

「変な角名くん。でも変な環境だから仕方ないか」

「いくら俺でもどうかするんだよ、こんな状況じゃ」

「じゃあ戻ったらもう言ってくれない?」

「守月さんの役目はちゃんと返す」

「うわ、他人任せな感じだー。いやだいやだ」


由佳が少し指先に力を入れてみれば、それに応えるように角名も僅かに握り返す力を強くした。ふふっと笑いながら由佳が顔を角名の方に向ける。しかし角名はそれに気が付かないフリをして、由佳とは逆の方向に顔を向け、目を合わせようとはせずに指先にさらに僅かに力を込めるだけだった。

忘れもしない、七月のあの日。全ての始まりの日。目を覚まし、視界に飛び込んできた光景の衝撃を今でもはっきりと思い出せる。どうしたら良いのかわからない不安と、何が起こっているのかが理解できない混乱。言葉にすることが難しい、地面から伸びてきた手に足首を捕まえられるようなジワジワと迫り上がってくるただならぬ恐怖。

この世界にたった一人で取り残されてしまったと、孤独に打ちひしがれていた。毎日毎日、諦めかけつつも検索の手を止めなかった。見渡す限り、行ける範囲内にもネット上にも、自分以外の誰一人として動ける人間のいない世界。絶望し途方に暮れていた時に見つけた一つの投稿。それが全ての希望へと変わった。


「角名くん」

「なに」

「元に戻ってもこうやって二人で歩こうね」

「元に戻っても守月さんが俺のことちゃんと好きならね」


あの日、この駅前で、確かにこちらに向かってくる足音を聞いた。自分じゃない誰かの声が自分の名前を確かに呼んだ。先の見えない真っ暗な闇の中にパッと光がさした。その光の先にいた、今こうして隣を歩いてくれている男の子が、唯一の救いで希望だった。

由佳が角名との距離を詰める。肩同士が触れ合いそうな近さだ。角名が由佳を見下ろす。俯いているために表情は見えないが、チラチラと揺れる髪の間から覗く耳が、水平線に吸い込まれそうになっている夕陽に近い色をしているのが確認できた。

九月十八日、十八時前。明日のこの時間には、欠けている部分が一つも無いまん丸の月が、まだ少し明るい空にゆっくりと登り始めるだろう。




 

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