僕等の御手軽理想郷


何日もかけ、ゆっくりと読み進めていた長編の漫画をなんとか読み終わることができ、最終ページをめくるとともに、角名はホッと安堵の息を吐いた。


「おー、読み終わったんだ」

「なんとか」

「面白かった?」

「この期間内に読み終えなきゃ、オフの日に漫喫行くことになるなって焦るくらいには」

「思ったよりすごいハマってた」

「ハマってるっていうか、ここまできたら最後だけ知らないのはなんか気持ち悪いんだよ」

「あー、その感覚はちょっとわかるかも」

「だよね」

「うん。ドラマでも漫画でもラストだけ見れなかったら結構しんどい」


柔らかな陽射しが降り注ぎ、室内の温度がほんのりと上がる昼下がり。やんわりと襲いくる眠気を吹き飛ばすように、少しの恥じらいもない様子で角名が大きく伸びをする。


「この綺麗な広い家で何も考えずゴロゴロできるのもあと三日って思うと惜しいな」

「元に戻ってもいつでも遊びに来ていいよ」

「仮に来れたとしても、リビングでこんな寛ぎ方はできないだろ」


気にしてしまったら負けだと、この二ヶ月間インテリア同等に思い込み意識から外していた、びくともしない由佳の両親が視界に入らないように角名はこっそり顔を背けた。

由佳が差し出してくるカップは、いつの間にか角名のものだと自然と二人とも認識してしまうくらい使い馴染んでしまった。それを受け取って、味に詳しくない角名でもわかるほどに美味しい、普段は自分からは飲まないであろうそこそこの値段がしそうな紅茶の味を堪能する。この味も最初こそ驚きはしたけれど、もう今更驚くことはないくらいに慣れてしまっていた。

それぞれの家に、それぞれの匂いがあると思う。祖父母の家に訪れた際に感じる、安心感を覚えるどこか懐かしい独特な匂い。綺麗に整えられた幼い頃の友人宅は、玄関に一歩足を踏み入れると同時にリードディフューザーから漂ってくる、隙のないほのかな甘さが印象的だったのを覚えている。

角名が初めて由佳の自宅に訪れた時、その幼き頃の友人宅の記憶が顔を出した。由佳の家も、その時の香りとよく似ている。細部まで拘られたインテリアたちから浮かない、生活の豊かさを思わせる上品な香り。自分が今まで生活してきた空間とは少し違うそれらに、最初は少し馴染めなかった。

なのに、いつからだろう。それに少しの意識も向けなくなったのは。自分の家の香りが自分ではわからなくなってしまうように、外に出て帰ってくれば香るこの家のそれも、角名の中では当たり前の一つになってしまった。


「角名くんのお家にも今度行ってみたいな」

「俺の家は本当に何にもなくてつまらないよ」

「別に何もなくていいんだよ」


両親はどんな感じなのか。妹の様子は。角名くんがどのような人たちに囲まれどのようにして育ってきて、今の性格を成してきたのか。それが知りたい。由佳はそれを口には出さなかったが、にこりと笑いかけたと同時に角名が目を逸らし「会わせたくないんだよね、特に妹」と発することで全て伝わっていると核心を持ち、また一段と笑みを深めた。

生まれた時からこの家で過ごしてきた。毎日、ここで生活をしていた。それは元に戻っても変わることはない。見慣れすぎている広いリビングを由佳がぐるりと見渡す。

二ヶ月前と何も変わらない。元に戻れば、今は動かない両親が何事もなかったかのように動き出し、少しすれば一人暮らしをしている兄も、夏休みだからと自分が二ヶ月間停止していたことなど何も知らずに帰ってくるのだろう。家族で過ごすいつもの日々が、再び動き出す。戻らないのは、今目の前で自分の家のように寛いでくれている角名くんの姿だけだ。由佳は僅かに俯き、小さく息を吐いた。

当たり前となってしまった光景がなくなることほど寂しいものはない。毎朝毎朝、家族がいる安堵と角名がいない寂しさを感じるのだろうかと思うと、少しだけ気持ちが沈んでしまう。


「もう角名くんうちに住めばいいのに」


降り注ぐ温かな日光に包まれ、気持ち良さそうにあくびを浮かべる角名を見ながら、由佳がボソッとこぼすように言った。


「住みたいよこんな家」

「じゃあ居てよ」

「付き合ってもないのにプロポーズ?いくら守月さんでも段階飛ばしすぎ」

「そんなんじゃないってば」


距離は生まれるものの、会いに行けば顔は見られるし話もできる。ただ、その頻度と場所が変わるだけだ。もう会えなくなるわけではない。なのに、どうしてこんなにも寂しいと感じてしまうのだろうか。


「それに、仮に住んだとしても守月さんの家族がいたらこんなに寛げはしないでしょ」

「うちの両親気にしないと思うよ」

「そこは気にして欲しいんだけど。俺が気まずい」


テンポよく進む会話。スラスラと言葉が出てきて途切れることはない。かといって、たとえ会話が無くても不安にはならない。ただ静かでゆったりとした時間が流れるだけだ。

隣にいて、何の負担にもならなくなった。通常では考えられない状況を自分たちだけで乗り越えてきた。

心の底から信頼できる関係を築けたからこそ得られる安心感。そこからさらに生まれてしまった恋心。距離が近くなったからこそ、離れることへの寂しさが募る。相手を大切に思ってしまっているからこそ、できることなら離れたくない。そんな複雑な気持ちを抱えながら、穏やかに過ぎていく午後を満喫する。

馴染めなかったはずの見慣れない空間が、居心地の良い場所となった。相手がここにいることが非日常だったはずが、いつの間にか日常になってしまった。

二人が醸し出すこの空気感は、二ヶ月かけてゆっくりと育んできた、角名と由佳の絆の証だ。




 

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