一億分の二


八月よりもかなり陽が落ちるのが早くなった。黒に染まった空に彩りを添えるように瞬く星たちを見上げる。

また天候が悪かったらどうしようかと、口には出さずともお互いに考えてはいたと思う。薄く伸びる膜のような秋の曇がまだらに空に浮かんでいるが、今日は朝から快晴だった。


「二人同時に見上げなきゃなんだよね」

「らしいね」

「下弦とか上弦とかの日も頭が痛くなるのは二人同時に見上げた時だけで、そうしなければ問題なかったもんね」

「それならカーテン締めとけば大丈夫じゃんって避け方、簡単すぎて逆に心配になったくらい」


空に見えている月は確かに丸い。しかし、満月であるというだけでは意味がない。

月が完璧に満ちる時間というものがある。角名たちが運良く同時に見上げた七月は午前三時十五分。そして、今日は午後八時十二分だ。

しっかりと暗くなった空を盗み見るように、角名が窓の外に視線を向ける。由佳はSNSを開いて時間を確認した。現在午後七時四十二分。あとちょうど三十分で、月は完全に満ちることとなる。


「戻ったらまた七月かぁ」

「またあの暑さは勘弁してほしい」

「角名くんはまた全国大会に向けて練習の日々だ」

「体力はそのままっぽいけど、二ヶ月だらだら過ごした後にいきなり四六時中動けって言われても、気持ちがついていくかわかんないんだけど」


怠そうにそんなことを言いながらも、コートに立てる日々が始まれば、角名はこの期間を名残り惜しむこともなくすぐに元の日常に戻っていくのだろうなあと由佳は思った。

自分は、どうだろう。急な変化についていけるだろうか。変化といえどもただ元に戻るだけなのだが、それでもなんだか心配になる。いつも通りの会話を続けているが、由佳の心臓はバクバクと大きな音を立てていた。

刻一刻と近づいている。この二人きりの世界が終わる時が。


「……あのさ、角名くん」


どこか真剣な由佳の声に、角名も僅かに姿勢を正した。


「元に戻っても角名くんのことが好きだなままだったら、会いに行っても良い?」


何度も聞いたというのに、何度でも確認したくなってしまう。自分から答えを求めているくせに、うまく目を合わせられず俯くことしかできなかった。由佳の呼吸が少し浅くなる。角名は黙り込んだまま、すぐには口を開かない。


「冷静になってよく考えて、それでも変わらなかった時だけね」


それだけ言って、角名はもはや定位置ともなっていたソファから腰を上げ、窓辺までゆっくりと歩いていく。それに続くようにして由佳も隣に立った。時刻はもうすでに八時を越えた。静かに二人で腰を下ろす。綺麗な木目のフローリングはひんやりとしていて、髪の先を揺らす程度にやわらかく吹き付ける風も落ち着いた温度をしている。 

手元のリモコンで灯りを消した。部屋の中と外が交わるように同化する。暗闇に飲み込まれた世界の中で、月と星だけが明るく輝いている。まだ暗さに慣れない瞳は、月明かりに浮かび上がるぼんやりとした相手のシルエットだけを捉えた。

もしかしたら、永遠に終わらないかもしれない。そう思ってしまうほどに先の見えない恐怖に怯える日々だった。その永遠を今、二人で終わらせようとしている。

人ひとり分空いた距離。今の由佳と角名にはこの距離が適切である。しかしそれを寂しく思ってしまうほどに、この二ヶ月で二人の心の距離は縮まった。月を見上げる角名の横顔をまっすぐに見つめた。徐々に暗闇に慣れてきた瞳だが、その表情をまだはっきりとは認識できない。

星が瞬く音まで捉えられてしまいそうな、信じ難い静寂に包まれている。微かな布が擦れる音さえも部屋いっぱいに響き渡ってしまう。

ゆっくりと、角名は月から視線を外さないまま由佳の肩に腕を回した。二人の距離がゼロになる。肩と肩が重なり合って、そこだけがほんのりとあたたかかった。

相手の顔が見たい、と思う。今どんな表情をしているのかを確認してみたい。しかし、自分の顔を見られるのは嫌だ。ひんやりとしたフローリングと頬を撫でる風に身体は冷まされているはずなのに、異様に熱い。自分がどんな表情をしているかなんて想像に容易かった。こんな姿は見られたくない。

二人して、もうすぐに時間になってしまうからと心の中で言い訳にした。実際、スマホで投稿する事で現在時刻を確認できるが、目を離してしまったタイミングが月が完全に満ちる時間である可能性もある。今は一瞬も月から目が離せないのだ。

星が瞬く。由佳が角名との距離をさらに詰め、密着度を高める。少し強く吹いた風が二人の間に隙間がないことを証明するよう避けて行く。由佳の肩に回していた手に、角名が僅かに力を込めた。まだらな雲が音もなく形を変える。由佳の髪が角名の肩からはらはらとこぼれ落ちた。

完全に丸くなった月が、この世界で唯一の二人を明るく照らし見守っている。

一体、どのくらいの時間が経ったのだろう。首に限界がくるまで黒に浮かぶ丸い黄だけを見上げていた。もう確実に八時十二分を超えている。九時すら超えてしまっているかもしれない。

ゼロだった距離が一になり、十になる。二人の間をゆるい風が駆けていく。どれだけの長い時間をその体勢で過ごしたかが、離れてもまだほんのりと熱を感じられる二人の肩に証拠として残っていた。


「これで寝て起きたら元に戻ってるのかなぁ」

「ちゃんと目逸らさず見てた?」

「見てたよ!」

「最後の最後にやらかしそうだから」

「やる時はちゃんとやるからね、私」

「信じらんねえって言いたいけど、守月さんはそうだよね」


え、角名くん今私のこと褒めた?という由佳の嬉しそうな声を無視するようにして、角名はゆっくり寝室へと向かっていく。階段を上りながらも、未だしつこく「ねぇねぇ」と聞いている由佳の表情は緩み切っていて、それを煩わしそうに、しかし穏やかな顔で「うるさい」と角名があしらう。

由佳の部屋の前で角名が足を止めた。先程までの賑やかな雰囲気は途端に息をひそめ、僅かな緊張が走る。


「じゃあ、おやすみ」

「うん」

「やっと戻れるっていうのに、その顔なんなの」

「いや、なんか」

「…………」

「うん。……ね」

「わかんないし」


三秒待っても、五秒待っても、由佳は何も言葉を発しない。


「何か言い残したことあるなら、今言っておかないと。全部終わっちゃうよ」

「うん……」


俯いたまま、由佳は角名の右手を取った。細く、長く、綺麗な指をしている。しかし決して華奢なことはなく、スポーツに本気で取り組んでいるとよくわかるしっかりとした厚みがある。


「角名くんが、良ければなんだけどさ。最後、一緒に寝たい」


ところどころ硬くなっている手のひらの感触を確かめるようにひと撫でする。そのくすぐったいようで甘ったるい不思議な感覚に、角名は眉を顰めて目を細めた。


「……守月さんから誘ったんだからね」

「うん」


無理やり指先を絡めた角名が、由佳を引っ張るようにして部屋の奥にあるベッドへと導く。二人で横になるには小さすぎるシングルベッド。足を少し丸めなければならない角名と寝転がると、どうしたって体の一部はぶつかってしまう。繋いだままの手は離さなかった。

向かい合って寝転がって、その間に手を置いて。そして狭いながらも一定の距離を保つ。身体の大部分は離れていても、かけた布団から熱が伝わってくる。一人の時には感じられない他人の体温が心地良い。


「角名くん」


まるで誰にも聞かれてはならない秘密の話をするような、とてもとても小さな声だった。


「好き」


この部屋の中にも外にも、角名以外には他の誰も聞いている人などいないというのに。

きゅっと弱々しく力を込めた由佳の指先を包むように、角名が優しく握り返した。出会った当初の言いようのない不安など、今はもう一切ない。


「俺も、多分、ちゃんと好き」


暗い部屋の中、安定しない視界は近くにいるお互いの表情だけをはっきりと捉える。柔らかく笑い合って、何もかもが伝わっていってしまいそうな静けさの中、目蓋を閉じる音が相手に聞こえてしまわないようゆっくりと目を閉じた。

窓の外には大きな丸い月が、二人を照らすように浮かんでいる。




 

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