イノセント・ワールド


打ち寄せては去っていく静かな波に視線を落とした。秋の気配も確かに感じられはするが、九月ももう後半戦だというのにまだまだ夏を引きずったまま、しっかりと切り替わることはない。足元を柔く刺激してくるこの波のように、季節もまた行ったり来たりと不安定に揺れていた。

遠くに見える水平線は、太陽の光に当てられて海と空の境目を真っ白にぼかしている。そのうんと手前の視界の隅の方で、由佳が膝の辺りまで豪快に濡らしながら自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、角名はようやく我に返った。


「びちょびちょじゃん」

「すぐ乾くよこの暑さだから」


来て来てと手招きをする由佳にため息を吐きながら、ゆっくりと足を進める。由佳の位置まで行っても角名の膝に水面が届くことはない。それに少しだけ不服そうな表情を見せたが、由佳はすぐに視線を遠くへとやって気持ちよさそうに目を細めた。


「わざわざ潮水に浸かるのの何が楽しいの」

「……は?」

「って角名くんは思うかもしれないけど」

「悪口だろもはや」


ただこうしてるだけで楽しくなっちゃうから海って不思議だよね。そう言って角名の方を向いた由佳は、太陽に照らされてシルエットがくっきりと浮かび上がり、視界の向こうで曖昧に揺れる水面とは真逆に自分の存在を強く主張している。


「守月さんはどこにいても楽しそうだけどね」

「えー?そう?」

「生きるの楽そうで羨ましい」

「それもある意味で悪口でしょ」


この二ヶ月間で聞き慣れてしまった由佳の笑い声が、波の音とともに角名の耳に届く。

出会った当初は由佳も不満そうな表情を浮かべる場面がたくさんあった。常に明るく、割と楽観的ではあったが、ここまで絶えず笑顔でもなかったと思う。後先のことをしっかり考えられるような余裕もないくらいに孤独に押しつぶされそうになっていた由佳は、角名に出会うまでの数日間はこの笑顔も何もなかったのだろう。

自分ではない誰かがいるという安心感を、お互いに提供しあってきた。しかしそれだけではここまでの関係性にはなれなかっただろうとも思う。慣れたとはいえ、まるでもうこの環境自体には不安など全くないように思えるくらいに楽しく過ごせているのは、こうして二人が相手のことを、ただのこの空間での協力者、という立ち位置だけでは見ていないからだ。


「夏の定番だし、一回海行っておきたいよなぁってくらいにしか思ってなかったけど、やっぱり来てよかったね」

「厳密に言えばもう夏は終わってるけど」

「そこはそうだねでいいじゃん」

「そうだね」

「棒読みに聞こえる。楽しそうには聞こえないよ!」

「そんなことないって守月さんならわかってるでしょ」

「でも角名くんはこれがいつも通りか」

「そこはそうだねでいいだろ」


えいっという短い掛け声と共に、由佳が片足を振り上げる。バシャっと音を立てて飛んだ、水飛沫と呼ぶにはだいぶ量の多い海水に、角名は素早く身を引きながら「ざっけんな」と僅かに声を張り上げ言った。

反撃のように角名が同じように足を上げる。しかし先ほどの由佳が舞上げたよりもだいぶ控えめな水の量だ。それでも上手く反応しきれず、結構な水を被り「うぎゃー!」と叫んだ由佳を、角名は手加減してあげてるのにというような目で見た。

誰もいない砂浜。正確には人は多々いる。しかし、誰も動いてはいない。どこに行っても自分たちだけが取り残されてしまっているように感じられるのに、二人でいればもう怖くもなんともない。潮風で濡れた肌が僅かに冷える。髪の毛を片手で押さえた由佳の目の前に、壁を作るように角名が立った。


「海の向こう側も全〜部止まってんのかな」

「そうなんじゃない」

「見に行ってみたいけど、行けないね」

「動くのは県内が限度」

「もし私が海外にいたら角名くんとは会えなかったのかなぁ」

「由佳さんが青森とかにいたら行かなかったよ」

「東京だったら?」

「行かない」

「じゃあその時は私が行ってたかも」

「体力ないから無理でしょ」


腕につけていたゴムで器用に髪を束ねた由佳が、少しムッとした表情で角名を見上げる。角名の背中に吹き付けている風は、先ほどよりも威力が少し増していた。


「あの時は確かに、自分以外に仲間がいたってだけで飛び出してきちゃえるくらいに俺もおかしくなってたけど、それでもこの距離じゃなかったらそれで終わりだったと思う」

「私がいたのが兵庫県内でよかった〜、本当に」

「俺は多分諦めるけど、俺がいるのが青森だろうがどこだろうが、取り乱してた由佳さんはどうにかして来ちゃいそうなのが今思うと怖いかな」

「私そんなにおかしかったかな」

「自覚ないの?」

「あんまり」

「取り乱してなくて俺みたいなの家に入れてたら問題なんだけど」

「……確かに?」


じとっとした目で睨む角名の、その表情に怯むことなく由佳が笑う。二人の足元の水面は絶えず上下を繰り返し、チャプチャプと静かな音を立てていた。波打ち際まで移動し濡れた足を乾かすように二人でその場に座り込む。何色もの青が重なりあった空と海で視界が埋まった。


「早く戻りたいって思う?」

「そりゃあね」

「そうだよね」


静かな時間。二人以外の声はもちろんしない。二人が黙り込めば誰の声もしなくなった。優しく打ち寄せる波の音だけがこの空間に絶えることなく響いている。


「角名くんは、ほぼ二ヶ月ぶりにちゃんとバレーできるってなってもついていける自信ある?」

「体力とか変わってないっぽいし、いけるんじゃない。それになんだかんだボールには触ってたし」

「ふふふ」

「……誇らしげにすんな。下手なやつの相手はマジで疲れるから」

「また下手って言った。角名くんも結構頑固」

「俺よりも守月さんの受験とかは大丈夫なの。忘れてない?」

「ちゃんと欠かさず勉強してたし大丈夫」

「よくやるよね」

「むしろ他の人よりいっぱい勉強する期間あったってことだから有利かもしれない」

「余裕こいてると滑るよ」

「受験生に言っちゃいけない言葉だよそれ。自分だってもっと焦りなよ」

「ボールもすぐ落とすし」

「落とすとかも言わないでよ。角名くんだって受験生でしょ」


元に戻れば当たり前だがどこに行っても人がいるようになる。だからこそ最後の最後まで、この時間を大切にしたい。静かな部屋で二人きりになったり、近くに誰の存在も感じられないほどの大自然に囲まれたりということになっても、今の状況とは全く変わってきてしまう。

あと数十時間したら再び動き出すであろう元通りの日常の中で、二人きりの空間を作り上げることができたとしても、それは“この世界に二人きりのように思えるだけの時間”であって、“二人きりの世界”では決してないのだ。




 

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