「これでも重いってどういうこと!?」
「俺が重いみたいな言い方すんなって。坂道だからでしょ」
フラフラと危なげな蛇行を繰り返しながらも何とか坂道を登っていく。前は坂道は発進すらもできずに倒れそうになっていたが、今回は何とか進むことができていた。
騒がしくしながら必死に自転車を漕ぎ続ける由佳の後ろで、だいぶ位置の下がった太陽を見上げながら、少し気温も落ちてきたかと角名は呑気に考える。
「そろそろ交代しない?」
「え、もう?」
「結構漕いだと思う!」
「いや全然だけど」
「うそ」
「ほんとだよ」
絶望的な表情を浮かべる由佳に、角名は一度わざとらしいため息を吐き立ち上がる。視線だけで早く退けと訴え、それをしっかりと受け取り理解した由佳が笑顔で自転車を降りた。
「電動だとやっぱ漕ぎやすいよね」
「それはちゃんと漕いでるやつが言うセリフじゃないの」
以前、二人で自転車に乗った時はごく一般的なタイプのものだった。今日は由佳の母が所持している電動アシスト自転車なので、少し踏み込むだけで驚くほどスイスイと進んでいく。それでも他人を後ろに乗せての走行は決して楽なものとは言い切れないが。
また自転車旅しようよと由佳が言い出した時、角名はわかりやすく顔を歪めてみせた。どう考えても自分が多く漕ぐことになるのが目に見えているからだ。その提案は却下したいが、やる気を見せる由佳を説得できる違う何かをする案があるかと問われたら、それも思いつかない。
それに、こういうことを自ら言い出した時の由佳は結構頑固で引き下がらないところがある。時々顔を覗かせる末っ子の要素にげんなりしながらも最終的に折れる角名は、こう見えても兄気質なのだ。
「そろそろ日暮れてきそうだから引き返すか」
「真っ暗になっちゃうしねぇ」
「もう行きたいとこ行き尽くした?これで最後だからね、次は絶対ないから」
「え……」
「当たり前だろ、もう絶対漕がない」
「そんなー……楽しいしまたやろうよ。戻ってからでもいいよ?」
「戻ってからじゃ二人乗りできないでしょ」
「あー、そっか。残念」
今日一日でかなりの写真がカメラロール内に増えた。景色だけではなく、お互いの写真まで様々だ。
「今しかできないことだと思えば、今日のは思い出作りとしてはいいんじゃない」
「角名くんもそういうこと考えるの!?」
「俺が考えると思う?」
「思わないからびっくりした」
「自分だけじゃ全然考えない。でもそういうの好きそうだし大事にするじゃん、守月さんは」
登ってきた長い長い坂道。見晴らしの良いここからの景色はとても綺麗だ。遠くに広がるキラキラと光る水面は青いはずなのに、今は夕陽に当てられて赤く染まっている。全てが真っ赤になる。角名も由佳も。
以前もこんな景色を見た。今だって、眼下に広がるただ赤く染まっただけの街並みに大きく心が動くタイプではない。しかし、今この瞬間に二人きりのこの街を自転車で駆け抜けることにはもしかしたら意味があるのかもしれないと角名は思った。思わなければいけないとも思った。
この時間には確かに意味がある。ここに来ないと、この世界ではないと得られないものが、確かにあったのだ。
「一気に降るからしっかり掴まってないと飛ばされるよ」
「ここを一気に!?すごいスピード出るよ!?」
「だからちゃんとしがみついてなって」
「うわあっ」
控えめに腰を掴んでいた由佳の手を取り、腹の前でしっかりと交差させる。驚き声を上げたその反応を若干馬鹿にするように笑い飛ばしながら、由佳が何かを言う隙も与えないように角名は素早くペダルを踏み込んだ。
「少しでもバランス崩したら終わりだから、動くなよ」
どんどんと加速していき、信号でも交差点でも止まることなく文字通り駆け降りていく。最初は怖がっていたはずの由佳も、次第に楽しくなってきたのか「キャー」とアトラクションを楽しむかのような声を出していた。回る腕に徐々に力が篭る。このスピードで走っていれば、まだまだ生ぬるいはずの空気も冷たく感じられる。聴覚はビュウビュウという力強い風切り音と、お互いの笑い声以外を捉えることはしなかった。
こんな生活、早く終わって欲しい。角名は今でも確かにそう思っている。しかし、そこに絶望的な感情はもうなかった。いち早く元には戻って欲しい。けれど、今この瞬間はまだ終わらなくてもいい。
「やっぱりさぁ」
「ん?」
「元に戻ったら危なすぎてこんなことはできないから、これで本当に最後だったんだね」
「普通のところでやったら誰かを轢くか俺たちが轢かれるかのどっちかだしね」
「…………」
「どうしたの」
急に黙り込んだ由佳の表情を、もちろん角名は確認することができない。角名の体の前に回された腕にさらに力が込められた。由佳の額が角名の肩甲骨のあたりにコツンとぶつかり、そのまま動かなくなる。目の前に広がる景色を脳裏に焼き付けながら、角名は背中に寄り添うぬくもりに意識を集中させた。
「無くなんないと、思う」
「え?」
「この時間が無かったことになっても」
元の世界に戻ることは、この時間も二人で過ごしてきた期間もまるまる無かったことになるということだ。その事実は変わることがない。前回二人で自転車に乗りこうして街を眺めた時、角名はもっと冷めた感情でこの赤を見つめていたはずだ。あれからの約一ヶ月間で、角名の感情は新たにあたたかな色を持った。
他人は知ることが出来ない、二人だけの時間。次の満月の日にちゃんと元に戻ることができたら、今度こそこの期間は無かったことになり、また時間が止まったあの日のその時間からやり直すことになるのだろう。それでもこの日々を、決して角名と由佳は無かったことになんてできない。
「角名くんからそう言ってもらえて嬉しい」
「守月さんが言わないから言ってあげたんじゃん」
踏ん張ってなんとか登り切った長い長い坂道を、あっという間に駆け降りてきてしまった。この世界に来てからの約二ヶ月は、初めはとても長い時間だと思っていたが、振り返ってみれば不思議とそこまで長くも感じない。
平坦な道で少しずつスピードが落ちていく。ブレーキを握るとキュッと音を立てて車輪が回転を止めた。見晴らしがいいわけでもない、いつも通りのありふれた視界だった。
「帰ろ」
「うん。ここからは私が漕ごうか?」
「いいよ、守月さん遅いし」
「電動だし坂道じゃないし大丈夫だよ」
「いいって。危なっかしいからそのまま落ちないように掴まってな」
日が落ちるまでは長いのに、落ち始めたら一瞬だ。暗くなった道をゆっくりと進んだ。
未だ全てが止まったままの世界で、自分たちだけが動いている。他の誰もが知ることもないこの時を、二人だけで記憶していく。