こぼれ落ちた時間たち


昨日を引きずり続けたまま迎えた今日。二人の間に流れる空気はそれはそれは酷いものだった。どちらも悪くはないからこそぶつけあうこともできず、どちらも悪くないからこそ良くもならない。

夕方近くになっても降り止まないこの雨はきっと台風によるものだ。今日の正午前がピークだったらしい。昼間はそれはもう家が壊れるのではないかと思うくらいに激しい雨風が吹き付けていた。現在はそこまでではないものの、まだ普段よりも雨は強く、風もかなりの音を響かせている。


「角名くん、夜ご飯何食べたい?」

「簡単なものでいいよ。そこまで腹減ってないし」


角名は普段から言葉遣いは冷たくない。しかし、刺すようにどこか低い声に由佳はどう返していいのか分からず、あまり会話は続かなかった。

普段から無理に話さなくてもいいとは思っているから、こうして一緒にいても何か話題が見つかった時にだけお互い好き勝手喋っていて、今までも同じ空間にいながらも無言の時間を過ごす事はたくさんあった。でもそれでも気まずくならない、そんな空間だったのだ。由佳も角名もそこに居心地の良さを感じていた。だからこそ今までこのリビングで過ごし続けられたのである。


「角名くん、ごめん」

「それは何に対して?」

「えと、」

「理由なく謝られても困る」

「ごめん。でもあと一ヶ月近くもあるし、仲直りしたいっていうか」

「喧嘩してるわけでもないのに」

「……でも、このままじゃ嫌だなって」


由佳に当たりたくなはいのに当たってしまう己の不甲斐なさにまた角名は苛立ちを濃くする。由佳はそれを悟ってまた沈んでいく。完全な負のループだ。二人して蟻地獄にハマったようだった。もがいてももがいても抜け出すことができず、足掻くほどに深いところまで飲みこまれていく。


「俺もごめん。守月さん悪くないのに当たりすぎた」

「ううん、いいの」

「良くはないでしょ」

「角名くんも困ってることあったらなんでも言ってね。私にできることなら、なんでもするし」

「そういうことは言わないほうがいいよ」

「ごめん」

「ごめんごめんって、謝ってばっかじゃん。守月さんに話したって何も解決しないんだからしょうがないし」

「…………」

「……なんでそんな泣きそうな顔すんの」


ハァと煩わしげにため息を吐いた角名に、ついに由佳の目から涙がこぼれ落ち頬を伝う。こんなタイミングで泣いたらもっと空気が悪くなるということは由佳にもわかっていたが、それでも止められなかった。


「私いないほうがいい?」

「そうじゃないよ、守月さんに対して苛立ってるんじゃないって」

「じゃあ、どうすればいい?」

「どうしようもできないって言ってんだろ」


切羽詰まったような声に由佳が目を見開く。それによって大粒の雫がボロボロと溢れ、冷たいフローリングにパタパタと落ちた。

やってしまったと言わんばかりに表情を歪めた角名が奥歯を噛み締める。どうしようもないからこそ、目の前にある当たりやすい対象に理不尽に感情をぶつけてしまう自分が憎らしかった。

由佳だって常に心細いはずで、角名しかいないと安心したような笑顔を見せる寂しさが隠しきれないような女の子なのだ。それをわかっているのに由佳のことを傷つけてしまうような態度しか取れないことにまた角名は自分を責める。普段通りに戻したいと思えば思うほど、以前までの普段通りではない日常に身を置いている矛盾を突きつけられて、自分が自分じゃなくなっていく感覚がした。

発散しようのない感情をもっと上手くコントロールできればいいのに。角名も由佳も同じように考えているのにそう上手くはいかないものである。


「……ごめん、頭冷やしてくる」

「どこにいくの?」

「ちょっと散歩」

「こんな雨なのに!?風もまだ凄いよ」

「傘させば歩けるレベルだよ。もうピークとっくに過ぎたし」

「だからって何も外に行かなくても」

「一旦この家から離れたいんだ。ごめん」


閉じられたドアの向こうに消えた角名の背中は、いつものような逞しさを感じなかった。静寂に包まれる部屋に由佳のため息が響く。この広い家の中に一人取り残される辛さがまたズッシリと襲いかかってきた。

しばらくそこで突っ立ったままでいたが、いまだダイニングで動かないままの、いてもいなくても変わらないような存在になってしまっている両親を視界に入れないようにしたまま由佳も玄関へと向かった。

このまま一人になんてなりたくない。角名くんも一人にさせたくない。自分のわがままかもしれない。そう思いながら、それでもいいと一歩踏み出した。

水溜りの水が跳ねる。傘はさしているものの、この雨風の中じゃ意味なんてほとんどなかった。もはや川のようになってしまっている道路を全身を濡らしながら突き進んでいく。

真夏の夕方なのに、分厚い雲に覆われているせいで辺りは薄い闇に覆われているようだった。ガラガラと不快な音を立てながら、どこかの家から飛んできたのであろう、半分壊れたバケツが由佳の足元を転がっていく。

静まり返っている、風と雨と飛ばされる様々なもので酷くうるさい世界。こんな違和感だらけの空間でまた一ヶ月過ごさなくてはならないのだ。たかが一ヶ月。されど一ヶ月である。普通の感覚じゃ想像できないくらいにこの世界の一日は長く、一週間は果てしない。

他人のことで一喜一憂するのは精神的にくるものがある。しかし、自分のことで一喜一憂するのもまた同じことなのだ。言葉をぶつけあって無理矢理にでも歩み寄らない限り、この雨風が止むことはきっとない。




 

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