花もほどけば雨になる


家を出て迷わずすぐに見かけたここに入ったので、この雨でも足元が少し濡れた程度だった。

角名がいるのは家から徒歩三分程度のところにあるマンションのロビーだ。広いそこは白で統一されていて、所々にアンティーク調な模様が施されていた。淡いオレンジのライトを灯すシャンデリアの下には、誰が弾くのかもわからないグランドピアノが置いてある。インテリアにしては少々大きすぎるそれがあってもまだまだゆとりがある程の広いロビーがあるここのマンションの住民は、きっと皆そこそこ裕福に違いない。

自分勝手に当たり散らかし家を出てきたら途端に冷静になってきた。普段ここまで感情を荒げないために、こういう時の上手い対処法が身に付いていない。角名はなんてことをしてしまったのかとまた大きなため息を吐く。この短時間でもう何度幸せを逃しただろうか。数えるのも億劫になってしまう程だ。

角名が抱えている苛つきの原因の元は、確かにこの世界にきてしまったからだ。しかし、突き詰めるともっとシンプルなのである。

この世界だとかそんなこと関係なく、早くバレーがしたくてたまらない。それが角名の本音だった。元の世界に戻っても、例えば怪我とか引退したりだとか、いろんな原因で長いことバレーができなくなる状況なんていくらでもある。そうなってしまった時、きっと今と同じような気持ちになるんだろう。

ふぅ、とため息ではない深い呼吸を一つして腰を上げた。レトロな雰囲気のふかふかなセミホワイトのソファが僅かな音を立てる。先程よりも多少空は大人しくなった。

冷静になればすぐに答えが導ける、こんなにも簡単なことなのに、なぜあんなにも取り乱してしまったのか。自分の本音やビジョンが明確になればなるほど先が明るくなっていく。そこに蓋をしていたからずっと暗いままだったのだ。一度自覚してしまえばあとは簡単に答えは出てくる。

まだ上手くまとめられはしないが、きちんと導き出せた一つの結論をもう一度心の中に思い浮かべながら、家までの道をひたすら走った。


「……どこいった?」


真っ暗なリビングには人のいる気配がなかった。自室にでも戻っているのだろうかと扉を叩き声をかけてみるも、由佳からの返事はない。恐る恐る開けた部屋の中も静まり返っていて、人の姿はどこにもなかった。

角名が頭を冷やすと出ていってから一時間は経っただろうか。戻ってきてみれば今度は由佳がいなくなっている。角名は眉間に皺を寄せ、慌てて来た道を引き返した。階段を駆け降り玄関の戸を勢いよく開ける。先ほどよりもまた更に弱まったとはいえまだまだ雨足は強い。飛ばされてきた何かがガンっと大きな音を立て、隣の家の壁にぶつかる音がした。

どうするかを考える間も無く、傘もささずに飛び出した角名は奥歯を噛み締め、全身に打ちつける雨に目を細めた。

多分、守月さんは俺のことを見つけに行った。彼女の性格を考えれば、きっと無理にでもそうするんだと思う。お互い口に出してこなかったけど守月さんはこんな状況になってしまった原因は全て自分のせいだと思ってる。そんなことないといくら口で言っても、きっと本人はそう思い思い込んでしまうんだろう。

確かに守月さんの一族の中で起こる不思議な伝承だとしても、望んで起こしているわけじゃないんだから守月さんだって被害者じゃないか。なのに俺は彼女のせいだと思い込ませるような言葉をまた吐いた。ひたすら謝るしかないじゃんか。理由なく謝っていたんじゃなくて、そもそもの原因が自分だと思い込んでるからこその謝罪だったんだ。気をつけていたはずなのに、自分のことばかり考えてた。また。前もこうだったのに。

打ち付ける雨を気にすることもなく、踏み出すたびにぐちょぐちょと気持ち悪さを増していく靴に気を逸らすこともなく、この付近できっと同じように足元を不快にさせながら歩いているだろう、自分以外の唯一の存在を見つけ出すためにひたすら走り続けた。


「守月さん!」


遠くに見えた見覚えのある姿に今までで一番の大きな声で叫ぶ。他の誰もがこの雨風でもピクリとも動かない中、角名の声に反応したたった一人、由佳だけが勢いよく振り返った。


「角名く――わっ」


この季節に似合わない温度をする冷えた肌。角名のものよりも随分と細い由佳の腕をしっかりと掴む。由佳の言葉を遮って、今までにない声量で角名は捲し立てた。


「なんで傘さしてないんだよ!」

「家出てすぐ突風で壊れちゃって」

「じゃあすぐ戻れよ!」

「……ご、ごめん」


こんなにも感情をはっきりとむき出しにしている角名を見るのは初めてだ。由佳は呆気に取られたように口をぽかんと開けて、今にも怒鳴る手前のような勢いの角名を見つめる。しかし怖いとは思わなかった。角名から発せられるのはいつもより言葉は荒いが由佳を心配しているような、確かな優しさに包まれた怒りで、あの冷たい雰囲気は一切感じられない。

聞いてんの!?と眉を顰めながら、黙りこんだままの由佳の肩に角名が両手を乗せた。その手のひらにそっと自身のものを重ね、由佳が小さく「聞いてる」と返す。


「……冷てぇ」

「角名くんも冷たいよ」

「俺は平気。指先は冷たいかもしれないけど、さっきまで全然濡れてなかったし、今も走ってたからむしろ暑いくらい」


冷えた由佳の手を取って、角名がゆっくりと走り出す。自分のペースではなく、由佳に合わせたスピードだった。

また急激に雨足が弱まったが、それでもまだまだ止みそうにはない。真夏の夕方には似合わない空の黒さ。激しい風で草木やあらゆるものが転がる荒れた道をひたすら走り抜ける。ところどころで立ち止まる人々は、この嵐の中でもそこから動くことなくただの街中のオブジェと化していた。

湿気を閉じ込めたような籠った匂い。バシャバシャと激しく響く、二人分の水溜りを弾く音。絶えず滴るほどの水分を含んだ前髪がピッタリと肌に纏わり付き、濡れた服が煩わしげに体を重くする。どこかのドラマや映画にありそうなシチュエーションなのに、自分が監督ならば絶対に撮らないと思えるような全身水浸しの男女が我武者羅に街を駆けていく。

過ぎ去った台風の余韻が抜けない夕方の、今までに経験のないワンシーンに、由佳の冷たい肌の表面には似合わない熱が体の内側で火を灯したような感じがした。こんなにも濡れているのに、消えることのないそれがパチパチと線香花火のように静かに花びらを開かせる。


「角名くん!」

「何?」

「……く、苦しい!!」

「何?でかい声で言ってくれないと聞こえないんだけど」

「苦しいって!!」


もう家までは百メートルほどで、この先の角を曲がればすぐに見える。由佳の叫びを聞いた角名が足を止めた。僅かに息が上がった角名と、ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返す由佳。フラつく足元を支えるように、立ち止まっても二人は手を離すことはしなかった。


「角名くん……苦しい」

「運動不足なんじゃない?それでよく俺に同じくらいバレーできるようになるとか言ってたよね」


いつものように意地の悪そうな笑みを浮かべ由佳を見下ろす角名に、口を尖らせて「もう」と一言放ち、由佳が手を引く形で残りの百メートルをゆっくりと歩いた。

激しく高鳴る心臓は、久しぶりにこんなに長距離を走ったからだ。熱った頬を覚ますように、由佳は空いた片手で顔を覆った。




 

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