本日、満月の日。
月は何も夜だけに出るものではない。昼の空にだって、月の出の時刻が早ければ、控えめだとしてもしっかりと白く己を主張しそこに存在している。
満月と言ってもその月が一番丸くなるピークの時間というものが存在する。約一ヶ月前、角名と由佳が偶然にも同時に見上げたあの日の月は午前三時十五分だった。
由佳の祖母がその祖母に聞いた話では、その時間のみに見上げないと意味がないらしい。たとえまだ月が空にあっても、その時間じゃなければいけないのだという。二人が同時に月を見上げて頭が痛くなったと感じたあの上弦の月の日、あの時も偶然にも二人はピッタリ月が半分にある十九時五十六分に見上げていたのだ。
事前にしっかりと満月カレンダーで検索し調べた今回の時間は、午前十時四十四分だった。
「これ、どうなるんだろ」
「……知らねぇ」
「もう。考えるの放棄したでしょ」
頭を抱える二人が何をそんなに困っているのかというと、時間を調べるためにいつものように適当に更新したSNSに表示されている現在時刻を見ればわかる。
午前十時四十七分。もう三分過ぎていた。
「タイミング悪過ぎだろまじ」
「落ち着いて角名くん」
「なんで守月さんはそんなに落ち着いてんの」
「焦り過ぎて逆に?」
「あー」
そう言われたら俺もそうなってきた。そう言ってズルズルと壁を伝うようにしゃがみ込んだ角名は、顔を腕で覆うようにして大きなため息を吐いた。それを見ながら由佳も窓の外を見る。
時間を逃したわけではない。もう予定時刻のだいぶ前から二人はずっと窓際で空を眺めていたのだ。仮に時間を把握していなかったとしても見逃すことなんてありえはしない。しかし、逃してしまった。
「なんで今日に限って雨降るかなぁ」
パタパタと窓を打ち付ける雨粒を恨めしそうに睨みつける。由佳は月どころか太陽でさえも見えない空に向かって表情を歪めた。ゴトっと横になるように倒れ込んだ角名は、空気の抜けた風船のようにしなしなと脱力し動かなくなった。
「次いつ」
「九月十九日」
「……また約一ヶ月後か。当たり前だけど」
「どうしよう」
「どうにもできないよ」
心なしか冷たく聞こえる角名の声に戸惑うも、それは無理もないことだと言い聞かせ由佳はめげずにキッチンへと向かった。
まだ開けてはいない、私もよくわからない名前の高そうな茶葉がしまってあったはずだ。お父さんとお母さんが開けることを楽しみにしていたものだけど、もうここで開けてしまおう。どうせ戻る時は飲んだ事実も消えて元通りなのだから、もうどうでもいいのだ。そう思い、見つけ出した缶の封を切って包まれた茶葉を取り出し掬う。
ふわっと瞬く間に広がった香ばしく甘い香りに、そこまで味にこだわりのない由佳もつい口角を上げながら堪能するように大きく息を吸い込んだ。肺を満たしたその香りを閉じ込めるようにお湯を注いだティーポットの蓋を閉める。
「角名くん、一緒に飲もう」
「……今そんな気分じゃないしいいよ」
「そんなこと言わないで、こっちきてよ」
いまだフローリングの上で伸びている角名の腕を引っ張り、無理矢理ソファまで連れてきた由佳が、この十日間ですっかり角名のものとなったマグカップに丁度よく蒸された飲み頃の紅茶を注ぐ。
こんな時にこんなものを飲んでもと角名は面倒に思ったが、「ね、ほら、すごく美味しい」と言いながら一口飲んだ由佳が、楽しそうに明るく振る舞っているように見えて表情がいつもより硬いのを見て、渋々自分も口をつけた。
「……美味い」
「ね!」
ニコニコと笑う由佳。しかし角名の方は見ない。紅茶の表面に映し出される由佳は、笑っているのに今にも泣き出しそうな表情をしていた。
守月さんだってきっと受け入れられたわけじゃないに決まってる。いくら次の満月まで待てば戻れるとはいえ、それでも心細いだろう。心配はつきないだろう。それでも無理にこうして振る舞ってくれているんだ。どうしようもないことを責めても無駄だし、俺にそれを言っても意味はないから。こんな状況で他人を気遣おうと思えるのがすごい。俺は、その点に関しては全然ダメだな。角名は由佳に聞こえないように小さく息を吐く。
とにかく、今は乗り切るしかない。終わりの見えない状況じゃないのが救いだと思え。角名は心の中でそう自分に言い聞かせ、手元に視線を落としたまま目を細める由佳に小さく謝った。
「ごめん」
「ううん、仕方ないよ。ただでさえ私が巻き込んだのにまた一ヶ月も我慢させちゃうの、こっちこそごめんね」
「それこそ守月さんのせいじゃないじゃん」
「でも」
「幸い生活には今のところ困ってないんだし、もう何言っても変わらないんだからやるしかないよ」
「……うん。角名くん、」
「ごめんはもう無し」
緊張した面持ちで俯きがちに視線を上げた由佳に、再度角名が口を開く。
「また一ヶ月、よろしく」
うん、ありがとう、こちらこそよろしく。そう言って安心したように微笑んだ由佳はもう一度味わうようにマグカップに口をつけた。
窓にはまだ、先ほどよりも強くなった雨が激しい音を立て打ち付けられていた。