尖りのない世界


疲れたと低い声を出して、二人並んで道端に座り込んでいた。と言っても、伏せるように頭を垂れて息を荒げているのは角名一人なのだが。


「坂多すぎだってマジで」

「私も漕ごうか?」

「そんなこと言うと本気でやらせるよ俺は」


眉を顰めて由佳のことを見上げた角名の呆れたような視線に一度グッと息を飲み込み、そして覚悟を決めたかのように由佳が側に置いていた自転車にまたがる。

何してんの、そう言った角名の言葉を無視した由佳は、「どうぞ後ろに」なんて言いながらハンドルを握る両手に力を込めた。


「無理だと思うけど」

「やってみなきゃわかんないじゃん」

「わかるでしょ。薄々気づいてたけど馬鹿だよね」

「酷いな。こう見えて結構成績良いからね?」

「存在するから、頭の良い馬鹿は」


たぶんこの様子じゃ言っても聞かないだろうと諦め、言われた通りに角名が後部に座る。しっかり捕まっててねと言う由佳に、角名はどこに捕まるべきかと思案したが、このまま遠慮したらきっと倒れて終わるだろうと想定して由佳の肩に手を乗せた。


「出発!」

「…………」

「しゅ、出発っ……!」

「…………」

「重……っ、角名くん重い」

「ホラ無理じゃん。あと俺が重いせいみたいなのやめてくんない」

「いやまだ頑張れるまだ」

「うわっ、危なっ」


無理やり踏み込もうとしたせいでバランスを崩し、思い切り蛇行しながら数メートル移動した。たった三秒にも満たないくらいの走行だったにも関わらず、相当な危険を感じさせる由佳の運転に角名は珍しく分かり易く慌てながら表情を崩す。

後ろに人を乗せて、平坦な道ならまだしも坂道をいきなり漕ぐだなんて、運動部でもない由佳では不可能だ。なぜわかりきっていることをやりたがるのか。理解できないと言ったようなため息を吐きながら角名が「交代」と言って立ち上がった。


「こんなことなら徒歩で移動すればよかった」

「でも自転車の方がたくさん移動できるじゃん」

「確かにそうだけど、漕ぐのは俺でしょ」

「今度は私も別で自転車乗ろうかな、お母さんのだけど」


丸一日二人でいられるのは今日が最後だからと朝から由佳がこの辺りを案内すると張り切っていた。神戸には何回か来たことはあったのでそんな今更と角名は思ったが、由佳の張り切る姿と、ここまでなんだかんだ世話になった恩があるからと何も言わず今日は一日付き合うことにした。

時間をかけて主要なところを周り、少し日が傾きかけた時に駅前を通りかかったとき、そういえばここに自転車があるということを思い出したのである。

この坂を登り切ったら目的地だからと由佳が角名を急かす。今日しかないとはいえ、時間はたっぷりとあるのだ。そんなに急かすなと心の中で文句を言いながら角名はペダルを漕ぐ足に力を入れた。

こっちに来てから確かに運動という運動はしていない。由佳とのバレーボールは角名基準の運動のうちには入らない程度だ。この数日間でガタッと体力が落ちてしまったのだろうか。いや、たとえ毎日部活があったとしたって、他人を乗せて夕方とはいえ真夏にこの斜頸の坂道を自転車で登るとなったらこんなもんかと、奥歯を噛み締めながらさらに力を脚に乗せた。


「バランス崩れないから角名くんの後ろすごく乗りやすい」

「それはよかった」

「よく思ってなさそう」

「こっちは今一杯一杯なんだよ」


二人乗りで、しかも坂道を漕いでいるとなれば多少ふらつくだろうがそんなことはない。兄の自転車の後ろに一度だけ乗ったことがあるが、平坦な道でももっと倒れそうで怖かった記憶が由佳にはあった。

角名の肩に両手を置いた由佳が、あそこ、とある場所を指さす。そこに辿り着くや否や自転車を降り転がるように地面に座り込んだ角名に、由佳が手に持っていたペットボトルを手渡した。


「お疲れ様」

「何ここ」

「見晴らしがいい場所」


水を一気飲みしながら視線を由佳と同じ方向に移動させる。確かに、ここは見晴らしが良い。遠くに海も見える。が、それだけだ。

これだけ坂を登ったのかと自分自身に感心はすれど、眼下に広がるただの街並みに心が動くような男ではない角名はそれ以上の感想は出てこなかった。


「おばあちゃんの日記には元に戻ったら時間が進んだままなのか、止まった瞬間に戻るのかは書いてなかったよね」

「あの瞬間に戻るんじゃない。数十年前に空白の時間があったなんて歴史知らないし」

「確かに」


そっかぁ、そうだよねぇ。そう静かに言った由佳の声は落ち着いていて、どこか寂しそうで、そして少し悲しそうだった。

街並みから由佳へと、顔は動かさず目線だけを移動する。他人の考えていることなんてわからないと思っているが、今由佳が考えていることはなんとなく予想がついた。角名は小さく息を吐いて、もう一度目線を正面に戻す。


「この時間も無かったことになるってことだ」

「……言わないようにしてたのに」

「だから俺が言ってあげたんじゃん」

「何それ」

「俺もちゃんとそこに関しては少しは何か感じてるってこと」


素早く横を向いた由佳にまた視線だけを向ける。目を大きく見開きながら驚いたようにする由佳の姿に、角名は小さく吹き出し揶揄うように「何その顔」と言って笑ってみせた。

早く元に戻りたいと思う。こんな意味わかんねぇ世界、早く抜け出したい。退屈で、やることもないこの日々から。きっと由佳に会う前の角名ならば、ここに“つまらない”という言葉を付け加えていただろう。しかし、退屈だとは思いながらも後半は決してつまらないわけでは無かった。明日からこの約一ヶ月が無かったことになる。寂しいとまでは感じないにせよ、角名だって多少の思うところはあった。

由佳だって戻りたいと強く願ってはいるが、せっかくここまで一緒に頑張ってきた角名との別れとなるとそれなりに寂しさが募る。角名が由佳のその気持ちを汲み取って自らああ言ってくれたということは由佳もわかっている。しかし、そういう意外にも優しいところを一つ知るたびに、別れが惜しくなることには、角名はきっと気がついていない。


「あ、角名くん見て、日が落ちるよ」


沈む直前に最後の力を振り絞らんと赤く燃える夕日に思わず角名も目を細める。眼下に広がるただの街並みに心が動くようなタイプではない。それでも、車の音も遠くの人の声も何もしない、風に揺れる木々の葉音だけが静寂に響き渡る中で、昼と夜が切り替わっていく様を見届けることには何か意味があるかもしれないと思った。もし無かったとしても、目の前の言葉にし難い自然が、今だけはそんなことはどうでも良いと思わせてくれる。


「……すご」


角名が小さな声を発する。思わずこぼれてしまったというようなその音に由佳もつられて同じ言葉を発した。

燃える街。遠くで煌めく水面。赤と黒が混ざり合った神秘的な紫に飲み込まれる空。掲げたスマホのフォルダに刻まれるこの光景は、今この瞬間の二人だけが共有できる景色だ。




 

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