まあるい距離を保つ


ドタバタと階段を駆け降りる音がリビングにまで響いた。角名がのそのそとソファから起き上がると同時に、バンっと激しい音を立てて由佳が扉を開く。何やら目を輝かせ興奮気味な由佳と、何事だと眉を顰める角名。対照的な表情の二人は、雨が降っている今日は外に出る事なく一日室内で過ごしていた。


「そんなに慌ててどうかしたの」

「見てこれ!」


ずいっと角名の目の前に掲げられた一冊の分厚いメモ帳のようなノート。年季の入ったそれは少し紙の端が黄ばんでいて埃っぽい。


「この前バレーボール引っ張り出した時に久しぶりに屋根裏部屋に入ったんだけど、ボール出すのにいろんなものの位置動かしちゃったから、戻すついでに片付けようって思っていじってたら見つけたの」

「……で、これが何なわけ?」

「おばあちゃんの日記!!」


声高らかに叫んだ由佳は、素早く角名に近づき隣に腰掛ける。肩と肩が触れ合うくらいの距離。逆隣に腰を下ろせばまだスペースに余裕がるはずなのに、何でわざわざこっちに座ったんだと思いながらも角名もそこから動かなかった。


「パラパラめくってたら、この七月のところに……ほら!!」


目を輝かせる由佳が角名の方を向いた。開かれたページに書いてあるものは、この間由佳が祖母から聞いたという話と同じ内容だった。


「まじ?」

「まじ!」


記されている内容を隅から隅まで読んでいく。これはもはや日記というよりは満月の日から起こった約一ヶ月の不思議な体験記だ。大まかな流れは由佳が話していた通りに、それよりも細かいことにまで触れられている。満月の日の、さらに完璧に月が満ちるその時刻。その時間に見上げることが鍵になるらしい。

七月二十三日の夜、二人は同じ時刻にあの月を見ていた。午前三時十五分。調べてみるとあの日はその時間が完璧に満ちる時間だった。つまり戻るには次の満月が出る三日後の十時四十四分。その時間がポイントとなる。

地域に伝わる話でもなく、検索してもこの手の体験をした人の話は出てこない。由佳の祖父も祖母もこの話を誰からも聞いたことがなかったらしい。誰に話しても夢ではないかと不思議な顔をされて終わってしまった。しかし、自身の祖母だけはその話を信じてくれたという。つまりこれは、由佳の一族の、隔世で起こる不思議な伝承。

月が持つ巨大な引力は満月によって最大まで引き寄せられる。そんなことをよく聞くのは確かだが、わかるようでわからない。しかしだからこそ今までこうしてこの不思議な体験談が引き継がれてきたのだろう。これじゃあ本当に御伽噺だ。曖昧だからこそ良いとされるのは伝説や逸話だからだと角名は少しイラつきを覚えた。これじゃあ角名は知らない一族の特異なイベントに巻き込まれただけの迷惑な話だ。

由佳の祖母はその不思議な体験の最後にこう綴っていた。

――この日記をもしも孫ができたら私も読ませたい。その現象と二人を繋ぐものは時代ごとに変わっていくけれど、満月はいつだってそこに変わらず存在する。


「おばあちゃんの時は手紙だったってことだよね」

「俺たちのは」

「SNS?」


唯一角名たちが連絡を取り合えたもの。こうして出会ったきっかけ。現代に寄りすぎだろとこぼした角名の言葉に由佳が笑う。結局細かい原因はわからないけどこの現象に説明はついたってわけだ。そう言った角名は「あと三日、とりあえず耐えればいいってことね」と退屈そうに伸びをした。


「おばあちゃんの話もっとちゃんと聞いておくんだったな」

「そんな話聞かされたって、実際に起こったとも自分に起こるとも思わないじゃん。仕方ないよ」

「……優しいね角名くん」

「そんなことないって。俺はそんな話聞いてもまず信じようとも思わないだろうし」


ジッと見つめてくる由佳に、角名は眉を顰めて「何」、と少し警戒するようにした。ボフッと背もたれに勢いよく由佳が寄りかかったことでソファ全体が揺れる。


「優しいよ。角名くんの立場からしたらただの被害者だもん。怒んないんだね」

「それこそ守月さんに文句言っても何の解決にもならないし、時間も何もかも返ってくるわけじゃないじゃん。守月さんだって詳しく話聞かされもしないまま巻き込まれた被害者と同じだ」

「……優しいね」

「だから違うよ。本当に優しかったら、もっと関心持って怒ったりする」


まだ雨は降り止まないらしく、窓の外からはしとしとと湿っぽい音が聞こえてきていた。


「あと三日かぁ」


ボソッと由佳が呟いた言葉に角名は何も返さない。早く元に戻りたい。そうとしか思えない。どこか寂しさがあるような由佳の声は、今の角名には少し胸に痛かった。


「守月さんはすぐに心を許しすぎだし、他人に情を持ちすぎだよ」


やんわりとした、優しい牽制。こんな状況だから一緒にいるしかなかった。角名はこの生活が終わることに、由佳と離れることに寂しさやそれに似たような感情を持ち合わせてはいない。放たれた言葉からそれらをしっかりと察した由佳は、やはりそれなりに頭は良い。

うん、そうだよね。そう答えた由佳の声を、角名はただ手元のスマホに視線を落としながら聞き流した。

ここまできたらもう起こってしまった事実としてしか受け止められない。取り戻せない時間と、きっとこれが終わっても誰にも理解されない時間を今まさに過ごしている。角名は由佳を視界から追い出すようにして窓の外を見た。この調子だと、今日は夜中まで雨は止みそうにない。




 

- ナノ -