2014年4月12日

うっすらと寒さを感じるこの季節の夜。誰もいない真っ暗な空間に明かりを灯す。シンと静まりかえったそこにただいまと律儀に挨拶をしても、その声に反応する物など当然存在しなかった。

知らない土地で生活をするということは、自分の思っていた以上にしんどかった。この一年、覚悟も努力もそれなりにしてきた。悩みもそりゃたくさんあるけど、楽しいことの方が多くて毎日充実していると思う。

けれど慣れない食事に、慣れない気候、慣れない言葉。引越しもしたことなかったし、ずっと実家にいたし、本当に何もかもが未経験のものに上手く対応していかないといけない環境。気がつかないうちに少しずつ塵のように積もっていたものがここにきて顔を出し始めた。

自分のやりたいことができているし、不満なんてないんだけど、それでもふとした時に押しつぶされそうになる瞬間というのは訪れてしまうもので。何をしても気持ちが沈んでどうにもならない、そんな夜がここ最近続いていた。

一度その悩みに苛まれてしまうとなかなか簡単に抜けだせない。普段は明るく前を見てはいるけど、思い悩み始めると深いところまで落ちてしまいがちなこの性格を、自分でも結構しっかりと自覚しているつもりだ。

今まではなんだかんだで周りにいろんな奴らがいた。何があっても明るく返してくれるマッキーに、いつだって冷静にそばにいてくれる安心感のあるまっつん、しっかり叱って喝を入れてくれる岩ちゃん。他にもたくさんの人たちが俺の周りにはいて、そして支えてくれていた。こうして誰もいない状況になって改めてその大切さと存在の大きさに気が付ける。

急に襲い来る孤独感。この土地に馴染めていないわけでは決してないし、チームのみんなも街の人たちも俺のことを歓迎し、親しくしてくれている。そんなことはわかっちゃいるけど、それでもどうしても拭えない疎外感が重くのしかかってきて、足元に蔦を絡ませ身動きを取れなくさせていた。

こういう時に限って、いや、こういう時だからこそなのか、なかなか思うように練習もうまくいかない。自分がしっかり成長できているのか、本当にここに来てよかったのか、来るべきだったのか、この道が本当に正しかったのかなんてそんなことを考えてしまう。

がんじがらめの思考回路に縛られ何もかもを投げ捨てたくなって、迷子になった子供みたいに不安定な心境で真っ暗な闇の中をひたすら一人で歩き続けるのだ。


『おはよう。休みだから今起きた。そっちはそろそろゆっくりできる時間かな』


スマホから今のこの部屋の空気には合わない軽快な音が鳴り響く。メッセージの送信者は心だった。そのなんでもない文章に思わずジワッと熱いものが込み上げるのを感じた。

ベッドに投げ捨てていたスマホを手に取って、素早く受話器のボタンを押した。もしかしたらこれから心は予定があるかもしれない。一度確認してからの方がいいのかもしれない。でももうそんな時間でさえも惜しかった。「ごめん今日は時間ないんだ」と断られてしまったって、たとえそんな言葉だっていいから、今は心の声が直接聞きたい。


『もしもし?珍しいね、こうやって急に電話してくるの』


どうかした?そう明るく笑った心の柔らかい声が耳に届く。周りの全てを包み込むようなその優しさが、今の俺にはあまりにも強く心に響いて、唇が切れてしまうくらいに強く噛み締めながら、声が漏れないように息を止めた。


『……徹?どうしたの?』

「…………ごめん、いきなり」


なるべく明るく言ってはみたけど、全然隠せていないことが自分でもわかる。水分が膜を張って視界がゆらゆらと揺れた。鼻にかかった声はわずかに震えて弱々しかった。

すぐに何かに気がついたらしい心は、それでもそのことについては何も言わず、そのまま話をし始めた。

この前友達と行ったカフェのケーキがすごく美味しかった。大学で今こんな事をしている。可愛いワンピースを見つけたから衝動買いをしてしまった。この講義はお経みたいで頑張っても後半は寝てしまいがち。友達が飼っている猫が可愛くて実家のペットに会いたくなってくる。

それを俺はただ聞いているだけ。うんともすんとも言わず、ゆったりと落ち着いた声で話し続ける心の声をただひたすら静かに聞く。たまに耐え切れずに漏れる息も、鼻を啜る音も、抑え切れず溢れる声も、絶対に届いているはずなのに彼女はそこには何も触れず、俺が落ち着くまでひたすらいろんな話を聞かせてくれた。


『落ち着いた?』

「ごめん、ありがと」

『ううん』


ほっとしたように優しく笑うだけで、心は何があったのとは一切聞いてこなかった。俺もそのまま鼻声なのも気にせずに最近あったチームメイトとの面白い話を心に話す。ふふっと控えめに笑い、良いタイミングで相槌を打ち、たまに『えぇ、それお腹壊さなかった?』なんて質問をするように反応をくれて、くだらない話に耳を傾けてくれる。


『あはは!!』

「あれは本当に参っちゃったよ、こっちのご飯もどれも美味しいけど、あれだけはもう食べたくないな」

『そんなに言われると私も食べてみたくなっちゃうな』

「残しても俺も処理できないよ?」


ケラケラとテンポの良い軽い笑い声が耳元で歌うように奏でられる。いつのまにか俺の足元に根を生やし巻き付き続けていたツタはどこかへ消えてしまったようで、足元に小さな花が咲き乱れ風に揺れているみたいに、ふわふわと暖かく軽い気持ちにさせた。

明日からも、これからも、俺はこの声に支えられていく。


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