2021年7月26日

流れる汗がこめかみを伝う。その音ですらも聞き取れてしまいそうな研ぎ澄まされた感覚と静寂の中、シューズと床が擦れる音と、ボールが肌に弾かれる音が鳴り響いた。

長い長いラリー。見守る観客の誰もが息を飲む。落とせば勝ち、落としたら負け。バレーボールの勝敗の付け方はいつだってとてもシンプルだ。

ボールが床に吸い込まれそうになる。0.1秒が命取りになるこの球技。素早く反応してボールの下に無理矢理滑り込んだ。ここまで来たらもう半ば意地のようなものだった。汗でよく滑るとはいえ、床との摩擦で肌がヒリヒリと痛む。


「上がっ……たぁ!」


思わず日本語が出た。もう必死すぎて、自分が今スペイン語を発しているのか、英語を発しているのか、日本語を発しているのかの判断すらも曖昧になる。笑顔からは程遠い鬼気迫った顔をしたチームメイトが、俺の手先から僅かに上がったボールを上手く繋いで相手コートに打ち込んでいく。少しだけ乱れたって怯むことなく全力。彼の一撃はいついかなる時も隙がないからこそこのチームでエースの位置にいるんだ。

それでもボールが落ちることは無い。俺たちと同じくらいに相手も勝つことに必死だからだ。素早く体勢を整える。この9×18メートルの四角の中じゃ一瞬たりとも休んでる暇なんてない。

タイミングを合わせてうちの自慢のブロッカーたちが高い壁を築いても、それを抜けてくるボールはしつこく地面に向かって突き進んでいく。リベロがしなやかに飛び込んで大砲のようなスパイクをなんとか上げた。際どい位置の難しいボールでもこうしてしっかりと繋げてくれるから、国内にたくさんいる優秀なリベロたちの代表として彼が今ここに立っているんだろう。

大きく伸びボールが飛んでいったのはネット際ギリギリ、相手コートに落ちるかこっちに落ちるかわからないくらいの場所。

ネット際でのボールの奪い合い。俺よりも背が高い相手。相手からすれば、アジア人の俺なんてきっと顔立ちも体格も何もかもがガキみたいに見えるんだろうな。立っているだけでも迫力のある奴がハッキリとした圧をかけて俺に挑んでくる。それでも絶対に怯みはしない。このボールは絶対に渡しはしない。


「トオル!」


その声とともに飛んでくる、全身で感じ取れる強い攻撃意志。チームメイトたちが大きく地面を蹴った。俺を信じて。しかしそれは"俺なら上げてくれる"だなんていう生ぬるい気持ちなんかじゃない。"死んでも上げろ"というある意味の脅しだ。お前がここに立っている意味を見失うなと忠告するように。国内にいるたくさんの上手くて強いセッターたち。その代表として、俺はここに立っている。他のやつに顔向けできないようなプレーはするな、なんて優しいことは思われてない。替えならいくらでもいるんだ。ここで上げなきゃ後は知らねぇぞという、やっぱりある種の脅しのような激励と信頼。

その感情に身体中を滅多刺しにされる。この感覚が、狂うほどに気持ちが良い。


「……クソッ」


両手じゃ届かない。体を捻って片手を肩が外れるくらいに上へと伸ばした。俺の真横からチームメイトが天高く飛び立つ。警戒した相手ブロッカーがそれに素早く張り付いた。


「舐っめんな……!!」


出来るだけ丁寧に五本の指をボールに添えた。右手一本。けれど両手の時と同じように。視界の端に微かに映ったライトの奥。チームメイトが地を蹴ったそこを目掛けて放った。近場に置くしかできないと勝手に判断したお前らの負けだ。この土壇場、この体勢、この局面、だからこそ……!!

指先を離れたボールは綺麗な弧を描いてライト側へと高く伸びていく。スパッと空を切る音が耳に届き、その後ダンッと地面を切り裂くような激しい音がフロア内に轟いた。

相手コートに転がったボールが速度を落としてコロコロと俺たちから離れていく。呼吸音がやけに頭の中に響く中、ボールを目で追い後ろを向いて固まる相手選手たちの止まった時間を眺めた。

ビーっと鳴った試合終了の音と共にドワァッと湧き上がる会場にパッと思考が切り替わる。張り詰めていた空気がフワッと軽くなって、鬼の形相をしていたチームメイトたちがそれまでの圧を投げ捨て親近感の湧く笑顔を浮かべた。


「トオル〜〜!!」

「はははっ!!」


飛び込んできたチームメイトを受け止めると、代わる代わるみんながやって来て団子みたいになる。そんなに一気に来られたら受け止めきれないよと笑ってみても誰も聞いちゃくれない。割れんばかりの拍手と歓声の中、それにも負けないくらいのチームメイトの大きな笑い声と共に勝利を喜んだ。

世界ランク的には俺たちよりもあっちの方が強かった。最後まで勝敗の読めない取って取り返してのシーソーゲーム。もう後がないファイナルセット。これを取れば勝ち、取れなければ負け。そんなギリギリの接戦だった。


「及川選手ー!!!」

「おめでとー!!」


日本人の観客が、日本語で、俺を応援してくれる。なんだか高校の時に戻ったみたいだな、なんて懐かしくも思いながらそれに「ありがとー!」と叫んで手を振った。他国の選手に日本語で話しかけてしっかり日本語で返ってくるなんてことはなかなか無いんだろう。興奮気味のその子たちに、ここは俺のホームであってそうでは無いのだと、もう何回目かの実感が沸いた。

俺がこのチームでこの場所にいる意味を、しっかりと胸に刻み直す。

バレーボール競技第三日。男子バレーボール予選リーグ二日目。ここでの俺のバレーボールは始まったばかりだ。


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