2021年7月13日
若干体に残ったままのアルコールが気だるく感じる、そろそろ長引く梅雨も明ける七月。蒸し暑い室内の換気をしながらまだまだ段ボールに詰め込みきれていない荷物たちの整理をしつつ、思い起こされるエピソードに今日も一人頬を緩めた。
『あちい』
そんな短いメッセージが届いたのはお昼頃のことだった。ここしばらくやりとりをしていなかったのに、挨拶もなしにそれだけを送ってくるのが岩泉くんらしくて笑ってしまう。
『お疲れ。今は休憩中?休み?』
『休憩中』
『そうなんだ。もうそんなに日数もないし、気温とか気圧とか変化激しいから体調には気をつけてね』
『お前は俺のカーチャンか』
彼からポンポンとリズムよく返信が飛んでくるのは珍しいことだった。大体いつもは送った数十分から数時間後だから。
『今日だろ。及川来んの』
『うん。あともう少しで到着するんじゃないかな』
『会いに行ってねーの』
『全部終わるまで会わない約束してるから』
それまですぐに来ていた返信がパタリと来なくなった。既読はとっくについている。三分ほどして着信画面に切り替わったそれを耳に当てると、久しぶりなんて挨拶はやっぱりなくて、『相変わらずなんかめんどくせーなお前ら』なんて第一声から呆れたような言葉を放たれてしまった。それに「ほんとにね」と笑ってみせる。
『そういや花巻と松川もお前らのことなんか言ってたぞ』
「なんかって何」
『あー、すまん忘れた』
「ははっ」
思い出したら言うわ。じゃあな。そう言ってすぐに彼は電話を切った。こうやってやりとりが何回か続くと、打ち込むのが面倒だからと少しの時間だとしても電話に切り替えてくるのが岩泉くんっぽい。
あと一時間ほどで徹が乗る飛行機が到着する時刻になる。何やかんや言いながらも、いつもこうして気にかけてくれるのが彼の良いところで好きなところだ。
『ついた!』
そんな短い文章とともに送られてきたのは見慣れた空港の写真。いつも通りの人混みの中、楽しそうにチームメイトとはしゃいでいる。
ついに来た。徹が日本に。私と同じ時間がきっと今の彼のスマホの画面にも表示されているだろう。他愛のないやりとりを数回して、彼はまた移動のために一旦それを終える。今日は雨は降っていないけれど雲は相変わらず多い。この感じじゃ飛行機もいつも以上に揺れるだろうなぁと思いながら鼠色の空を見上げた。
早めに色々済ませておこうと夕飯を食べていた十八時すぎ。震えたスマホに目を向けると、一件の新着通知が届いていた。表示された“及川徹”という名前に飛び上がる勢いで既読をつける。『とりあえず色々終えた!また夜に!』。そんな慌てた様子の短い文章に笑いながら、落ち着いてからでいいからねと返事を打った。
「長旅お疲れ様」
『今日の飛行機ちょう揺れて落ちるかと思ったよ』
「はは、やっぱ揺れたんだ。心配してたよ」
『国際便って、勝手に立ち上がってお菓子とか飲み物とか好きなもの後ろに取りに行けるじゃない?ちょうど同じタイミングでそこに五歳くらいの子がいてさ、一緒に遊んでたんだよね』
「子供と?」
『そうそう。タイミング悪く席立ってるその時に揺れ始めちゃってさー、その子も突然のことにビックリしてちょっと泣きそうになってたから一緒に席まで戻ったんだけど、ずっとピッタリくっついてくれてて凄く可愛かったなー』
「徹も同じような反応してたんでしょ」
『驚きはしたけど泣きそうにはなってないよ!?』
「えー?」
ちょっと、何さその疑うような声。そう不服そうに言った彼は、こちとら何回飛行機乗ってると思ってんの!と少しだけ大きな声を出しながらも楽しそうに笑っていた。
『それにしても今日の入国審査すごい混んでてさ』
「今ちょうど五輪関係者の入国ラッシュ?」
『そうなんだよ。もうさぁ、日本人専用ゲート通らせてよって何回も思っちゃった』
「徹もうそこ通れないもんね」
『そー。こういう時に地味に今の自分の国籍自覚する……』
心もいつか実家帰るとかで帰国する時にここで地味に自覚する日がくるかもね。そう言われて、そのことに関して何も考えていなかったので少し言葉を詰まらせてしまった。
『……心ちゃん?もしかして何も考えてなかった?』
「……うん。もう目の前のことにいっぱいいっぱいで」
『まぁ心がどうするかは追々決めていけばいいよ』
私の国籍をどうするかはまだ決めてはいなかった。取得するか否かはわからないけど、もしも取ることになったら私もそういうところで自分の現状をふと自覚する日が来るってことなのか。
彼と一緒に、これからの人生を決めていける。じんわりと新たに生まれた気持ち。寒い冬に飲む温かいココアみたいなほんのりと広がるその幸福感に満たされる。スピーカーフォンに設定したスマホをベッドの上に置いて、誰に見られているわけでもないのに緩む頬を両手で隠した。