2021年6月23日
何日も降ったり止んだりを続けている雨が、今もザァザァと鼠色に覆われた空から絶えず降り注いでいる梅雨の盛り。この梅雨が明ける頃には、徹もいよいよここ日本へとやってくる。
引越し準備というものはなかなか思うように進まない。少しずつ荷物をまとめてはいるが、どうしても思い出の品を見つけると手を止めじっくり眺めてしまう。広げたアルバムに視線を戻した。今よりだいぶ幼い顔付きの私たちが小さな四角い枠の中で笑っていた。
高校生なんて今思うと遠い昔のように感じる。勢いだけで生きれた時代。当時の私たちはそれを特別意識してはいなかったけど、今思うとだいぶパワーに溢れていたと思う。徹と出会えたのがその頃の私で良かった。気持ちも何もかも変わったなんて思わないけど、あの告白を今してみろと言われたら、出来るかどうかわからないな。
明日は午前休を取った。徹が明日は練習が少し早めに終わり、調節のために自主練もそんなにしないので電話をくれると言っていたから。
カレンダーについた赤丸を見るたびに口角が上がってしまうのはもう仕方がない。来月半ばに徹は来日する。そして明日からちょうど一ヶ月後にはオリンピックの開会式がある。遠距離恋愛の最後の一年間。その締めとなる怒涛の一ヶ月の始まりだ。
『おはよう』
そうメッセージを送ったのは朝の六時だった。十二時間の時差だから、あっちは今十八時。流石にまだこの時間では徹も帰って来てはいないだろう。わかっていてもソワソワする気持ちが止まらなくて何となく早起きをしてしまった。
『おはよ!早くない!?今帰宅中!ついたらすぐ電話する!』
そう返信が来たのは約四十分後。普段ならそんなに急がなくてもいいよと言うかもしれないけど、今日は早く声が聞きたい気持ちが大きすぎて『待ってる』とだけ返してみた。
カーテンを開けると同時に眩い朝日が顔を出す。キラキラと光るそれを全身に浴びた。身体中の細胞が目を覚ますような感覚に、光合成なんてものは人間には出来ないけれど、もしも出来たらこんな感じなんだろうかなんてことを考えた。昨日までの雲はどこかへ消え去ってしまったようで、ひときわ鮮やかな青空が広がっている。本格的な夏の到来を予感させる梅雨の晴れ間の蒸し暑さ。いつも不快に感じるけれど、それにさえ気分が上がるくらいに今日は全てが輝かしい。
プルルっと手の中で音を立てたスマホをタップした。ワンコールにも満たない素早さに自分でも笑ってしまう。案の定電話の向こうの彼も『はや!』と驚いたように笑っていた。
「練習お疲れさま」
『ありがとう』
久しぶりに声を聞いた。最近は徹も私も忙しかったから。忙しい時は無理をして連絡は取らない。お互いのストレスにお互いがならないように。それが私たちが長く関係を続けていくために決めたルールの一つだった。
いつものように明るい声で、面白おかしく通話が出来なかった期間内にあったことの話をしてくれる。耳を傾けながら幸せを噛み締めた。こうして声が聞けるだけでも舞い上がってしまうほどだ。ビデオ通話に切り替えていい?との言葉に頷くと同時に画面に徹の姿が映る。手を振れば振り返してくれるし、話しているときの表情もわかる。同じ時間をこうして共有できることが、私たちにとっては何よりも嬉しかった。
「あと一ヶ月だねぇ」
「あっという間だなー」
「もう毎日チケット眺めてるよ。見えるところに飾ってあるの」
私のその言葉にハハッと笑った徹は、そのあと静かに「心」と落ち着いた優しい声で名前を呼んだ。
「忘れてないよね」
「もちろん」
「全部終わったら、迎えに行く」
「うん」
「それまでは心も目一杯最後の日本楽しんでおいて」
「そうするよ。今のうちに和食たくさん食べなきゃ」
「それは本当に大事!すんごい恋しくなるから!!」
来週徹が来日しても、全てが終わるまで会うことはない。そう二人で決めている。
『全員倒して、そんで心を連れて帰る』
そう言ったあの日の彼を思い出した。強い視線、強気な笑顔、真っ直ぐすぎる曇りのない決意に血が湧くように全身が熱くなった。
「……好きだなぁ」
「またずいぶんいきなりだね?」
俺もだよ。そう言ってくれる画面の向こうの徹の表情は、とてもとても穏やかだった。
口ではなんでも簡単に言えると思われてしまうかもしれない。態度で示せとよく言うし。でも私たちはそんな簡単に会うことが出来ない。こうしてしっかり時間を合わせない限り、姿を簡単に見せることも見ることも出来ない。そしてたとえこうして見えていたって、実際に隣にいるのとは全く感覚は変わってくる。
離れ離れの私たちが相手を思いやるために一番大切にしなくてはならないことは何か。それを考えた時、思っていることをはっきりと口に出すことが何よりも大切なことなのだとこの数年間で学んできた。
不安も、楽しいも、嬉しいも、悩みも、楽しいも、心配も、愛しいも、私たちは他の人たちに比べたら察することが困難な環境にあるから。態度で示してもこの距離では100%で伝えるのも受け取るのも難しい。でも言葉はどんなに離れていても、気持ちをそのまま届けることができる。
私たちの一番の敵はストレスを抱え込むことだ。忙しくて無理そうならしっかりとそれを伝えて他の大丈夫な日を提示するとか、声が聞きたくなったら素直にそう送ってみるとか、心配になったらしっかりお互いの気持ちを確認し合うとか、自分の気持ちと相手の気持ち、負担にならないように、負担にしないように、マイナスなことはなるべく遠ざけるように常に意識しながら過ごしてきた。
「ちょっと忙しいから、次に電話できるのは来月かな」
「うん」
「その頃には俺ももう日本にいるね」
「……うん」
「あはは!今ちょっと声震えた?」
「もー、そこは突っ込まなくていいから!」
ハハハと笑い続ける彼にムッとしながら「笑いすぎ」と不満を告げる。「ごめんごめん」と軽く流して「でも俺もちょっとジーンときてんだなこれが」とふざけたように彼が言うのは、私と同じように声を震わせないためだというのにもちゃんと気づいている。
「来月はたくさん電話しようね」
「うん、私もほとんど休みだし」
「いいなぁ有休消化期間!」
この次の電話からは、朝におやすみを、夜におはようを言わなくていい。おやすみと言い合って一緒に眠りについて、おはようと言いながら一緒に起きれる。この他の人からすれば当たり前な挨拶ですら、私たちにはとても重要なことなのだ。
当たり前が当たり前じゃないからこそ気が付けた。彼と私の些細な幸せ。