2012年7月10日

「及川くんのことが好きです」


夏が私の背中を押すように、余計な思考回路を激しい日差しで吹き飛ばしながら衝動に駆らせた。長期休みに入る前、長く続いた空も気持ちもどんよりとさせる梅雨が、やっと過ぎ去った本格的な夏到来の季節。多くのクラスメイトが半年後には入試を控え、本格的に将来を見据え出すこの時期に、私は及川くんを呼び出した。

告白なんかしたことなかった。だからどうして良いのか勝手がわからなくて、とりあえず良くある方法に出た。放課後は部活で忙しいだろうし、邪魔をしたくはないのでとりあえず昼休みに。場所は体育館裏。こんなにもベタすぎると、もう呼び出した時点であなたに告白しますというのがバレバレだと思うけど。

及川くんが少し前に彼女に振られたらしいという情報を耳にしたのは三日前のことだった。花巻くんが「そういえばさ」と話の流れで教えてくれたのだ。それから三日間、いてもたってもいられなかった私は、及川くんに告白するなら今だと咄嗟に行動に出た。

いつか彼に自分の思いを打ち明けたいとは思っていた。なんとなく彼女のいる人に想いを打ち合けるのは気が引けてしまってなかなかタイミングが掴めなかったけど、今なら遠慮なく伝えられる。彼はとても人気だから、もたもたしていたらまた新しい彼女がすぐに出来てしまうだろう。

付き合いたいとは、思ってなかった。だって私が彼と付き合えるなんて思ってもいなかったから。そりゃあチャンスがあれば、その手を振り払わず掴めるようにしたいとは思ってはいるけど、そんなことは起こらないだろうと思い込んでいたのである。

だから、好きですとただ一言シンプルに自分の気持ちだけを伝えた。そのたった四文字の言葉だけでも緊張で声が震える。そんな一方的な告白に意味があるのかはわからないけれど、それでも、ただ、及川くんを見ている人がここに居る事を知って欲しかったのだ。


「わざわざごめん、それを伝えたかっただけで」

「……そっか、ありがとう高杉さん」

「ううん、こちらこそ聞いてくれてありがとう」


優しく笑った彼はそれ以上は何も言わなかった。可もなく不可もなく。告白の成功が付き合うことになることならば、私のこれはきっと失敗なんだろう。最初から成功を望んではいなかったとしても。

じゃあ俺行くね、と背を向けた及川くんがだんだんと遠くなっていく。確かに私の告白は失敗に終わりそうになっている。でもそれは一般的な意味での失敗ではなかった。私は、知って欲しかったのだ。及川くんを見ている人がここに居る事を。まだそれを伝えられていない。彼のどこが好きで、どこを見ているのか。

一年生の時の春高宮城県代表決定戦。たまたま学校で召集がかかってせっかくだからと友達たちと足を運んだ。そこで初めて彼のバレーボールを見た時、ブワッと目の前に強い風が吹いた気がした。草木を揺らす、強い風。

バレーのルールなんて知らないから、彼のプレーを上手いとは思うけどその実力がどれくらいのものなのか詳しいことはわからなかった。けれど獰猛にボールに食らいつくその姿が、いつもの爽やかさなんて忘れさせるほどのサーブ前の静かで鋭い視線が、たまに見かけるおちゃらけた性格なのかと思わせるイメージを完全に吹き飛ばすほどの闘志が、私の身体の中心をめりめりと引き裂くように侵入してきた。

私は、あの瞬間からずっとバレーボールをする及川くんを影から見てきた。

どこから見ても綺麗な彼は、綺麗なだけではないことを知った。深く知ろうとしなければ、彼がいる場所は清らかな風が吹くんだろうなんて思わせられるのに、彼は一番爽やかさとは対極にある泥に塗れた生き方をしていたのだ。

嫉妬、闘争心、焦り、不安。その人間らしい感情を包み隠すことなく、でも決して安易に表に出すこともしない。なんとも不思議な人だった。足元を泥だらけにしながら爽やかな風に吹かれている。自分の現状をしっかりと理解して、もがき苦しみながらも前へと着実に進んでいる。

その姿を、好きだと思った。


「及川くん!!」

「……ん?」


こんなことを恥ずかしげもなくきちんと伝えられる機会なんて多分もうない。遠ざかる彼に早口でそれを伝えた。彼は絶対にもっともっと凄い場所に行く。私なんかじゃ想像さえも出来ないような所に。だから、手の届かない遠い遠い存在になってしまう前に、離れてしまう前に、叫べば声が届く、今、この瞬間に。


「及川くんのその生き方、応援する!卒業してもずっと!」


大袈裟過ぎだと、笑われてしまうかもしれないけれど。


「……ありがとう」


驚いたように目を見開きながら及川くんがそう言った。それに「うん!!」と大きな声で頷いてみせる。最初の緊張なんてどこへ行ってしまったのだろう。伝えたいことを全部伝えることが出来た充実感に満たされていた。体は宙に浮いたように軽かった。

こちらを向いて黙り込んだままの及川くんにニッと笑いかける。「それだけ!聞いてくれてありがとう!」そう言った私に、口を結んだままだった及川くんはその場に留まりながら小さく息を吐き出し、そしてゆっくりと形の良い唇を動かした。


「……高杉さん、俺のこと好きなんだよね?」

「うん」

「それって恋愛感情?それともファン的な意味?」

「えっ?」

「すごく熱く言ってくれるからさ、なんかどっちなのか途中から分からなくなっちゃった」


彼はそう言って笑ったが、私のことを馬鹿にしている様子は一切なかった。彼が一歩一歩足を踏み出す。それと同時に離れていた距離がまただんだんと短くなっていく。地面を踏みしめる音がどんどん大きくなってきて、ついに目の前まで戻ってきた及川くんがにっこりと私に笑いかけた。さっきよりも、その距離はうんと近かった。


「……どっちの意味でも。及川くんそのものが好きだから」


わからない。彼の考えが。どんな答えを求められているのか。正解はなんなのか。これが失敗なのか成功なのか。それでも素直にそう答えた。混乱し左右にふらふらと揺れる視界は及川くんのシルエットをしっかりと捉えているけれど、背景はぼやけてしまってうまく認識できない。

胸の前で手のひらをぎゅっと握りしめる。そこに及川くんがそっと触れた。こんなにもジメジメとした夏の始めなのに、さらりと涼しい肌の温度が心地よかった。


「じゃあ、俺と付き合ってよ」


信じられない一言が、彼の口から飛び出した。


「え……、えっ……!?」

「ね、いいでしょ」


及川くんはモテる。そりゃもう漫画みたいに。代わる代わる出来る彼女はどの子もみんな綺麗で、及川くんの隣に並ぶに相応しい容姿をしていた。スペックが高い人の元には、やはり同じような人物が集まるのだといつもいつも感心していたのだ。

それに対して私はどこにでもいるような平々凡々な女子高生。これといって誇れるものなど何一つ無い。高嶺の花になんてなれっこない、ありふれた名前も知らない雑草だ。


「…………」

「俺のこと好きなんじゃないの?」

「でも、私なんかで、本当にいいの……?」


こんな女を選んだなんて及川くんが笑われないかとか、今までの人たちと比べられないかとか、もしかしたら次の人が見つかるまでのキープなんじゃないかとか、ただの気まぐれなんじゃないかとか、いろんな考えが頭を巡る。


「うん、高杉さんがいい」


でもそのたったの一言で全ての不安が風に吹かれてどっかに消えた。彼が隣にいても良いと言ってくれているのだ。辞退するわけがない。彼の気が変らないうちは一緒にいたい。彼の気が変わらないように、手を尽くして努めていくのだ。

都合の良すぎる夢ではないのだろうか。信じられないというように固まる私を見て大きく笑った及川くんは、「これからよろしく」と言って私に手を差し伸べた。その掌を両手で握りしめる。まさか、こんなことになるなんて。


「あはは、手繋ごうって思ったのにそれじゃ握手だよ」

「……え、握手じゃないの?」

「これからお付き合いよろしくお願いします〜って?それは面白すぎでしょ!」


大きくて、あたたかくて、丁寧に整えられた爪。繊細な指先は細く長いのに、ゴツゴツとしていて表面が硬い。とてもとても、綺麗な手。一瞬触れただけでもわかる彼のバレーボールへの本気の取り組み方が、やはり心の底から好きだと思った。

見届けたい。太く、どっしりと、真っ直ぐにそびえ立つ大樹のような信念を。新緑のように色鮮やかで濁りのない純粋な気持ちを。風が吹いて雨が降って嵐が来てどんなに汚れたって、折れる事なく太陽に向かって枝を伸ばし続ける、その生き様を。


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