2020年9月4日

ざわざわと落ち着かない国際ターミナル。賑わいを見せるそこはたくさんの人で溢れていた。見送りの為に出国ゲートに集まる人々の間から見慣れた姿が顔を出した。向こうに見えるチェックインカウンターの長蛇の列からようやく抜け出せたみたいだ。


「思った以上に時間がかかっちゃった」


ごめんねと片手をあげて駆け足気味でこちらへとやってきた徹は、少し疲れたように短く息を吐いた。大丈夫と返事をしながら、荷物をまとめて腰を上げる。

出発まではまだ少し時間があった。そういう場合は決まっていつもの場所へと向かうのだ。人の多い国際空港でも上手く探せば穴場がある。長い年月をこうして共に歩んできた私たちは、もう何度もここへ訪れていた。

遠距離恋愛七年目。言葉にすると簡単だけど、その道のりは決して楽なものではなかったと思う。


「心、」


優しく名前を呼ばれれば、青葉が風に吹かれ音を立てるように心が揺れる。そっと身体を引き寄せられ、そのまま鍛えられた胸板へと額を預けるようにして私は徹の腕の中に包み込まれるように収まった。学生の時よりもだいぶ厚みが増したそこに手を這わせて顔を上げる。困ったように柔らかく眉を下げて笑った徹と、至近距離で見つめ合った。


「そんなに寂しそうな顔されると、どうしていいかわからなくなっちゃうな」


徹の声にはいつものような元気はなかった。そうさせているのは自分だと解っていても、どうしたっていつものようには笑えない。あやすようにポンポンと私の頭の上で手のひらを弾ませた彼は、もう一度微笑みながらも切なげな表情を見せた。


「ね、心」

「ん?」


言い出せない。いつになれば一緒になれるのなんて、今更。


「……こっち来ない?って言ったら、怒る?」


耳がその言葉を捉えた瞬間、冬を乗り越えた淋しい木々が一気に蕾をつけるように心の奥が膨れ上がった。一つ、また一つと花を開いて、あっという間に満開になる。待ち望んでいたあたたかな春が下向きな気持ちを吹き飛ばすように強い風を巻き起こした。

真剣な眼差しで私を見つめる。徹はいつものチャラけた雰囲気なんて一切なくて、冗談で言っている訳では無いということが直ぐにわかった。


「怒らない、けど」

「けど?」

「混乱してる。嬉しくて」


徹はアルゼンチンに行くことを決めた。行かないでとは言わなかった。こっちに残ると決めたのは私だ。付いてきて欲しいと彼も言わなかった。

大きな理想も、全てを投げ捨てても叶えたいと願うような夢も持ってはいない。でも、やってみたいことはあった。誰かの為になるような職業でも、感動を与えるような仕事でもない。それでも私は目指していた。自分の実力でどこまでいけるか、世界に飛び出し走り続ける徹の隣で同じように居られるように、私も自分で決めたその小さな夢にちゃんと挑戦してみたかった。

彼の意見を尊重して、私の意見を尊重して、お互いにお互いの気持ちを解りあい、そしてそれを受け入れた。

地球の裏側同士。世界で一番離れた遠距離恋愛。時差はきっちり十二時間。あっちが夏ならこっちは真冬。

何もかもが真逆の生活だった。もちろんそう簡単に会うことだって出来はしない。行き来をするのに膨大な時間とお金がかかる。電話をするにも何をするにもスケジュールを合わせる必要があった。

寂しい気持ちに慣れることなんてない。折れそうになったことだってもちろん何度もある。それでも離れる選択肢なんて選ばなかったし選ばせなかった。着信履歴に残る彼の名前を見る度に、新着メッセージが届く度に、久しぶりに会う度に、私には彼しかいないのだと確信しながらこれまで二人で頑張ってきた。

この関係を何年も続けて来れたのは、私と徹の重ねてきた努力の証として誇って良いものかもしれない。


「心、この前仕事で目標にしてたことが出来たって嬉しがってたじゃん」

「うん」

「俺的にはもうこのタイミングしかないと思ったんだけど、どうかな」


花びらがひらひらと音も無く舞って、私たち二人の周りに美しい壁を作る。世界は広い。私たちはそれを嫌というほどに実感してきた。でもこの狭い壁の中には私達しかいない。手を伸ばせば触れることができて、声を出せば機械を通さず相手に届く。彼の胸元に置いていた手を握りしめた。震えるその指先をそっと手に取り彼が優しく口付ける。そこから伝わってくる熱が蔦のように絡まって、私と彼を繋ぎ止めた。

お互いにお互いのやりたいことを優先した上で関係を続けていく。そう二人で選択した。いつかやるべきことを成し遂げて、お互いに納得できる瞬間が訪れた時に一緒になれればいいと思っていた。その瞬間が今こうして訪れたのだ。

数年間、耐え忍んで育んできた関係性を、まだまだこれから先も繋いでいける。それに確信が持てることが何よりも嬉しかった。

視界がぼやけてゆらゆらと瞳の表面に膜が張られていくのがわかる。徹は嬉しそうにはにかみながら、座ったまま器用に両腕で私を抱き締めた。背中に回された大きな手のひらがポンポンとリズム良く動いて、彼のTシャツの肩口が私のせいでじわじわと濡れていく。

どうしようもなく舞い上がる。風に吹かれた花びらのように。私の視界には彼しか映らない。花吹雪があってもなくても、いつだって私が見ているのは徹の芯の太い生き様だけだ。


「でもすぐには無理でしょ?仕事の都合とかさ、準備とか。これからの時期は俺も忙しくなるし。……だから、一年後」

「来年の夏、か」

「うん」


大きく笑った徹は、「そろそろ行かなきゃ」と言って腰を上げた。手はしっかりと繋がれたまま。

出国ロビーには先程よりも人が増えていて、気を抜いたらすぐにでもはぐれてしまいそうだった。握られた手に力が込められる。ゆっくりと顔を上げた。静かに近づいてきた唇が、私のそれに一瞬触れてすぐに離れていった。その確かな感触と残る熱を忘れないように記憶に刻む。プロのバレーボーラーがこんなに目立つ場所で、ダメでしょ。そう言いながらも、また涙が滲んでしまうほどにどうしようもなく嬉しかった。


「大丈夫、俺は日本じゃ無名だから」

「そうかもしれないけど……」


素早く動いた彼に思いっきり抱きしめられて、もう一度唇が触れ合った。さっきの記憶なんてすぐに忘れさせてしまうくらいの、身体の芯まで震えるほどに熱い感情が流れ込んでくるようなキス。

さすがのこの行為には周囲の人達にもだいぶ注目されてしまっている。いくらまだ日本では徹の知名度が低いからと言って油断はできないはずなのに。しかし彼は何も気にすることはせず、私を離そうとはしなかった。本人が良いと言ってるんだからもう知らない、なんて開き直って大きな背中に腕を回した。唇を離して私の頭に顔を埋めた徹が、くつくつと喉を鳴らし肩を震わせながら笑う。


「夏が過ぎたらもうここでこういうこと出来なくなるね」


その挑発的な物言いが、何を示しているのかはすぐに解った。


「来年の夏、絶対日本に行くから。その時もう一回ちゃんと迎えに行く」


そっと体を離した。真っ直ぐに見つめ合う。不敵に笑う徹の姿を、私は生涯忘れはしないと強く誓った。


「全員倒して、そんで心を連れて帰る」

「ヒーローなのか悪役なのかわからないね」

「どっちにもなってみせるよ。俺は全部欲しい」


どんと構えた太い幹は、張り巡らせたたくさんの根から力強く水を吸い上げ、いつだって瑞々しく、決して折れることはない。

狂ったように大きく動き出した心臓は、いつまでもその速さを緩めようとはしなかった。もう一度二人でキツく体を寄せあって、そして名残惜しく思いながらもゆっくりと離した。不思議と寂しさは感じなかった。約束のその時まではまだ一年もあるはずなのに。

じゃあね、またね。といつも通りの言葉を交わした。悲しみを覆い隠す笑顔ではなく、心の底から晴れ晴れとした表情だった。もしかしたらこの場所でこうして手を振り合うのもこれが最後になるのかもしれない。そう思うと少しだけ感慨深くなる。

手を振り続けながらゲートへと向かっていく徹に、今出来る最大限の笑顔を浮かべて大きく腕を振り返した。それを見た徹が満足そうにニッと笑って、ゲートの奥へと消えていく。姿が見えなくなってもしばらくその場所からは動けなかった。

ポケットに入れていたスマホが大きく振動したので慌てて取り出し確認すると、もうすぐ飛行機が出発するはずの徹から新着メッセージが届いていた。


『俺たちの最後の遠距離恋愛、ちょう楽しもーね!』


ウザったらしいウインクをした絵文字が文章の終わりに付いている。それが彼っぽいなってちょっと笑った。終わりの見えなかった道のりにゴールが出来る。そしてそこが、私と徹の新たなスタート地点にもなるのだ。

迫り来る2021年。長くて短いこの一年で、一体何がどこまで変わるんだろう。彼の無限の可能性が花開くその瞬間に、私はどんな気持ちでその姿を見つめているのだろうか。


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