きみが倒れたとの連絡が入っていることに気がついたのは、練習が終わって他のメンバーとダラダラと帰り支度をしていたまだ夏の面影が残る秋の初めの夕方のことだった。
「……っきみ、」
ガラッと勢いをつけて開いた扉の向こうに見えたのは、病室のベッドで起き上がって、いつも通りの様子でりんごを食べているきみと、少し歳の召した一人の女性の姿。
全力で駆けてきた俺は荒い呼吸を繰り返していて、そんな俺の様子を二人は驚いた様子で見つめている。「あっ角名くん」と俺の顔を見て嬉しそうに笑ったきみは、今りんご剥いたばっかなのなんて言いながら、それが入った皿をこちらに向け「食べる?」と声をかけてきた。
「りんご……?食べないけど。……え、なに、倒れたんじゃないの?何があったの?りんご?なに、意味わかんないんだけど」
「あはは、混乱してる」
「するでしょそりゃ。待って、この状況理解できてないの俺だけ!?」
とりあえず病院内だし、うるさくはしないようにと声量には気をつけながら部屋の奥へと進む。どうぞと用意された椅子にお礼を言って座って、点滴の繋がれたきみの細い手首を取った。
「倒れたって聞いたんだけど」
「はい。その言葉通りです」
「……元気そうにしてるけど、今は大丈夫なわけ」
「うん。疲れが溜まってたらしくて、それがバーンときちゃったっぽい。でもだいぶ寝たし点滴の効果もあって今は平気。様子見で今夜は入院するけど、もう明日には帰れるって」
「……また追い込みながら何か描いてたの」
「あー、うん。課題とコンテスト作品と自主制作。どれもいい感じに進んでたから止めたくなくて」
ハァと大きく息を吐いて握った細い手首を自分の額に当てるように頭を抱えた。小さな声で「ごめん」ときみが呟く。それは一体何に対しての謝罪なのか。ちゃんとわかっているのだろうか。
「怒ってる?」
「あたり前だろ。何言ってんの。怒らないとでも思うわけ」
「……ごめんなさい」
「自分が悪い事わかってんなら、もう二度目は絶対ないようにしてよ」
前々からほどほどにしなと言ってきたけど、甘かった。いつか倒れちゃうんじゃないなんて揶揄ってたけどもっと本気で言っておくべきだった。もっと小まめにきみの様子を伺えば良かった。もちろんここまでなるまでしでかしたのはきみ自身で、この事態を招くまで自分の管理すらまともにできずにいたきみ本人が悪いのだ。けれど、俺にももう少し何かできることはあった気がする。
「言いたい事たくさんあるけど、今はとにかく早く回復して」
「うん」
「怒るのも何もかもきみが元気になってからね」
「え…………うん。わかった」
きみも今回ばかりは反省しているのかシュンと項垂れながらもう一度ごめんねと謝り俺の名前を呼ぶ。その弱々しい声に、とりあえず無事でよかったと思わず抱きしめたくもなるけど今は我慢だ。きみにはしっかりと自分の失敗の理由を考えてもらいたい。それにここは病院で、ここには俺たち以外の人もいる。……ん?
「え、あ、すみません俺いきなり来て勝手にきみさんと話しちゃって」
先客がいたのにズカズカと入ってきてしまった。今更自分が思ってた以上に取り乱していた事に気がついて、申し訳なさと恥ずかしさが一気に襲ってくる。掴んでいたきみの手を離して、ズッと音を立てて椅子ごと身を引いた。
するとニコニコと優しい表情でこっちを向いたその女性は、とても嬉しそうにしながら俺の顔をじっと眺めた。
「…………」
「…………」
無言の時間。気まずい。この人もきみもなんで何も言わねぇの。なんて心の中で悪態をつきながら目の前の女性の顔を同じようにじっと見つめ返すと、なんだかその人のことをどっかで見たことあるような気がしてきた。目を細めた時の柔らかい雰囲気とか、幸せそうに笑うその口元とか。
「……もしかして、きみのお母さんですか」
「うん、そうだよ」
恐る恐る口を開いた俺にケロッとした顔でそう答えたきみは、何事もなかったかのように「お母さん、この人が角名くん」なんて自己紹介を始める。きみの母親だという人物はそれはもう満面の笑みで俺の方をもう一度見て、「きみがいつもお世話になってます」と穏やかな声で挨拶をしながら軽くお辞儀をした。
「え、あ、え、角名倫太郎です。すみません挨拶遅れて。気づかなくて、ほんと、申し訳ないです」
「いいわよそんなの気にしないで〜」
「いやでも……あぁ、そうだ、きみさんとはお付き合いをさせていただいてて」
「うん。知ってる知ってる。きみからよく話は聞いてるわよ」
「ちょっとお母さん、その話はしなくていいから!」
何やら俺のことをもう既に認識しているようなお母さんと、慌てたように突っかかっていくきみ。そのやりとりを聞きながら俺は柄にもなくめちゃくちゃ焦っていた。
くそ、きみの親に会う時はもっとちゃんとしっかり挨拶とか色々したかったのに。突然のことすぎてテンパって何も浮かんでこなかった。ビシッと固まりながらその場に佇む俺にフフッと優しく微笑んだきみのお母さんは、「角名くん、私が想像してたよりももっと良い人そうね」と言いながらきみの方を見て、少しニヤついた表情で「良かったわね」なんて話しかけている。その話し方や笑顔がきみにそっくりだった。
「きみも元気そうだし、お母さんはここで一旦失礼するわ」
「来てくれてありがとう。またね」
「たまには連絡入れなさいよ?角名くん、今度よかったらうちに遊びにでもきてね」
「あ、はい、ありがとうございます」
頭を下げればもう一度フフッと優しく笑ってきみのお母さんは出て行った。バクバクと音を立てる心臓がいつまで経っても静まらない。左胸を押さえ、「マジびびった」ときみのベッドに上半身をヘナヘナと倒れさせると、俺の頭を撫でながら「私のお母さんは怖くないからなにも心配しなくても大丈夫だよ」と先ほどの彼女の母親によく似た笑顔で笑った。
「お父さんは怖い?」
「全然。お母さんよりも優しい」
「それってきみが娘だからじゃないの。俺のとこも妹には異様に優しいし」
「そうなのかなぁ」
「そうだって。うわ、急に緊張してきた」
「はは、大丈夫だって。お父さんも角名くんに会いたがってたし」
「え、俺のこと話してんの」
「うん」
「それ絶対いい意味での会いたいじゃねぇって」
「そんなことないよ」
「いや絶対そうだって。今からちゃんとイメトレしとこ」
「心配し過ぎだよ、らしくないなぁ」
確かに、らしくないと言われてしまえばらしくない。でもここまで緊張するのは絶対にきみの両親の前で失敗したくないという気持ちがあるからだ。でもさっきのは実際どうだ?俺何もできなかったじゃん。気の利いた会話なんてひとつも。母親であれなら父親の前で俺はどうなるんだよ。こうやって緊張しながら誰かと話すとか、そういうことって今までの人生にはなかったから想像するだけでやばい。
まぁ、今すぐに何かがあるわけではないけど。いつかのことを想像して勝手に焦ってしまう。
傍に置かれていたきみの手をそっと握って、「きみはもう本当に大丈夫なの?」と声をかければ、平気だよと穏やかな声が降ってくる。それでもやっぱり少しだけやつれているような気がする。細くて薄い肩をゆっくりと抱き寄せて、柔らかい髪に顔を埋めた。
今回は大学で倒れたから周りに人がいたしまだ良かったけど、一人で家にいる時に倒れたりしていたらと思うとゾッとする。抱えた肩に力を込めた。きみが退院したら、しっかり怒ってしばらく見張っとおかないと。
慣れない独特の匂いのする病室で、そのまま二人で静かな時間を共有する。面会時間の終了を告げられるまで、ずっと。
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