三途春千夜が憎くて愛しい




※少しだけですが緩い流血表現があります



瞬きをする間も無いくらいの、ほんの一瞬の出来事だった。

真紅の花弁が踊り狂うようにブワッと舞い上がった雫たちが鮮明に視界を燃やした。その飛沫は私の身体までをも呑み込むようにビチャビチャと飛び散り辺りを濡らす。むせかえるような鈍い匂いに思わず目を瞑り顔を覆った。赤から黒へと移行した視界は途端に不安定にチカチカと白味を帯びる。全身から力が抜けて呼吸が浅くなった。酸素が足りないせいで体の末端からビリビリと痺れが広がっていく。

「――――……」

叫び声すらも出なかった。目の前で崩れ落ちていった“父だったもの“は、これは現実ではないと思い込みたい私を無理矢理自覚させるように思考をこちらに引き戻させようとする。意識をせずとも出来ていたはずのそれの仕方を忘れたかのように、吸うことも吐くことも出来なくなった肺が悲鳴を上げて、その苦しさから透明な水分が一筋頬を伝った。

「この女なんだ」
「コイツの娘みたいですよ」
「あー……不運だったなこんなところに居合わせるなんてよォ」
「殺しますか?」
「この件で民間人には手出したくねーけど、ま、しゃあねぇわな」

血の滲んだ涙で視界が揺れる。薄らと開けた視界の先に映ったその人は、桜色の綺麗な髪の毛をたおやかに揺らしながら、この部屋には似合わない無機質な足音を響かせ射抜くような視線をこちらへと向けた。細く長い指先をこちらへと伸ばし、この空間には場違いのような綺麗な音色を口元から発したけれど、その言葉の形を捉える前に私の意識はそこで途切れたのだった。

「オイナマエ、起きろ」
「……帰ってきたの」
「今な。にしてもずいぶん魘されてたなァ」
「あの時の夢、見た」

もぞもぞと動き体勢を変えようとするも、がっしりと回された腕の中では行動範囲は限られている。額に滲んだ汗がツゥっと頬を伝って、全身がベタベタして気持ち悪い。それを拭いたいのに、春千夜はそんな私の心境を知ってか知らでか腕一本も動かせないくらいに強い力で抱きしめてくる。

「春千夜、痛いからもう少し力弱めて」
「…………」
「聞いてる?」

何も言わない彼の顔を見上げる。仄かに揺れるその瞳は少し虚で今にも壊れてしまいそうにも見える。彼は私と視線が交わると、素早く背中を丸めて飲み込むように唇を合わせた。私にこれ以上何かを言われるのが怖いのかもしれない。そんな風にも思えてなんだかやるせない気持ちになる。

今でもたまに夢に見る。あの日の最後の父の姿。その度に愛しいはずのこの綺麗な男が憎くなる。

「ねぇ春千夜」
「しゃべんな」
「ねぇ」
「しゃべんなって」

イラついたように語尾を強めてそのままもう一度口を塞ぐ。キスというよりは押さえつけるという表現が相応しいようなこの行為はあまり好きじゃない。角度を変えるその一瞬の隙をついて顔を離した。不機嫌そうに睨んでくる彼の事はこの際無視する。柔らかな日差しに包み込まれ、外では小鳥がさえずる絵に描いたような素敵な朝なのに、この部屋の空気はどんよりと重く、お互いに目に光はない。

私たちの出会い方が悪すぎたのだ。あの時の鮮明な赤い記憶の次にあるのは私の顔を覗き込む春千夜の姿だった。「あ、起きた」なんてケロッとした顔で言った目の前の親の仇は、暴れる私を押さえつけて銃を額に突きつけ「オレが憎いか」なんて、卑しく口角を上げ馬鹿にしたような顔をした。

この世の誰よりも憎いはずの相手に絆されて、結果こんな関係になってしまった私は救いようがないと思う。愛しさと憎さが混在している私と彼の関係は傍から見たらきっと酷く歪なんだろう。

「何考えてる」
「春千夜にはわかんないよ」
「たしかに解んねぇな。解りたくもねーし」

振り上げたその手でバシッと強く頬を叩いても、何でもないようないつも通りの目でジトッとこちらを見やる。それがまた私の感情を逆撫でて、どうしようもなくなって涙として体の表面に現れるのだ。馬鹿みたいだ。ほんとに。救いようがない。

「泣くなって」
「泣いてないし」
「ハ?嘘にも程があんだろ」

乱雑に顎を持ち上げ涙を拭ってくれる。春千夜の硬いスーツの袖じゃそんなことをされても痛いだけなのに。きっと真っ赤になっているであろう私の目蓋を見て「うわ腫れてら」なんて可笑しそうに笑いながら、彼はそこに優しく唇を落とした。

「死ね」
「なら殺してみろよ。ホラ」

私の手首を掴み自らの首元へと持っていった彼は、そのままグッと力を入れて私の手を押さえつける。

「そんな半端な力じゃ死なねーぞオレは」
「やめてよ……っ」
「なんなら舌でも噛み千切るかァ?」

ベッと舌を出して顔を近づけてくる。素早く顔を逸らすが、相変わらず彼の首元で手は掴まれたままだ。空いたもう片方で抵抗しようと試みればそれも簡単に囚われてしまう。

「大人しく殺せよ」

そのまま無理矢理唇を合わせ、力尽くで舌をねじ込ませてくる。その息苦しさにまた涙が溢れた。嗚咽でうまく息ができないというのに春千夜はそれを無視してその行為を続けてくるのでさらに息が上がる。酸素が行き届かない指先は彼の首元にだらしなく垂れた。

「そのまま歯立てっか力込めて首絞めればナマエでも簡単に殺せたってのに、バカだな」
「馬鹿はどっちよ」
「せっかく殺されてやろうと思ったのによ」
「……頭おかしい」

そっと私を掬い上げるように静かに抱き起こした。胸元に預けられた耳から彼の心臓がどくどくと音を立てるのが聞こえる。それに酷く安心した。ポンと頭に乗った手のひらは切ないくらいに優しかった。そこからじんわりと広がっていく温かさが私の思考回路をまた麻痺させる。

「春千夜……好き」
「ハッ、やっぱナマエも大概狂ってんな」

死んでほしいくらいに憎い。なのに、今ここで私と共に彼が生きている事実が何よりも嬉しい。こんなにも心苦しい真実が存在するだなんて、彼が言うように本当に気が狂ってしまいそうだ。

私はあろうことか、世界で一番憎い男を愛してしまった。


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