灰谷蘭には堕ちたくなかった




少し動いただけで汗が噴き出る、夏。ジメジメした風に鬱陶しそうに目を細めた灰谷くんは、日陰になった段差に腰掛け壁に背を預けながら、目の前に立ちはだかる私に気怠げな視線を寄越した。

「どうして」

責めるような私の言葉にただ口角を上げるだけの彼は、苛立った私なんてお構いなしにわざとらしく「なにが?」なんて言葉を返す。

「付き合ってもねーのにそんなこと言われる筋合い無ぇわなァ」
「それは、そうだけど」
「付き合ってない男まで自分のモノにならないと嫌?」

ハッと短い息を吐き出しながら、立ちすくんだままの私のことを見上げながらも見下すような視線を投げかける彼は、ゆっくりとした動作で私の腕を掴んで「オレが誰に手出そうとオマエには関係なくね」なんて言って、長くて節くれ立った指を私のそれに絡めた。

私が眉を顰めると同時にぐいっとその手を引っ張られ、あっけなく体勢を崩される。コンクリート造りの段差に打ち付けられた膝にじわりと血が滲むのを確認した彼は、「あー、ごめんね?」なんて少しだけ眉を下げたが、反省している様子など皆無で、それがまた私の気持ちを逆撫でする。

「離してよ」
「なんで」
「なんでって、本気で言ってんの」
「んー、オレがナマエちゃんのものにならないから?」
「違うって……!」

言ってんじゃん、という言葉は最後まで続かなかった。無理矢理塞がれた口からは声ではなく虚しい吐息だけが漏れる。乱暴な彼からは考えられないくらいに優しい感触に思考回路が鈍っていく。ぽたっと流れ落ちた涙に気がついた彼は、「やめてって言わんねぇんだ」とずいぶんと愉しそうな顔をしながら乱雑に私の頬を親指で拭った。

「……最悪」

本当に、最悪だ。絡められたままの指先をくすぐるように撫でた彼は、「オレは誰のモノにもなれないけど、ナマエちゃんはオレのモノだもんね」と、これまでにない笑顔を見せて、もう一度私の口を塞いだ。抗議の言葉も、抵抗も、全部飲み込まれて押さえつけられる。彼は彼の言う通り、きっとこれからも私のものにはなってくれないのに。

こうやって私のことは縛りつけようとするのだから大嫌いだ。不公平だ。付き合ってない男まで自分のものにならないと嫌なのかと先程彼は私に問いかけたのに。全くタチが悪い。

「最悪っ…!」
「ンなこと言うなって、オレのこと大好きなくせに」

絡め取られた思考はどんどんと深い闇に覆われて、もはや自分でもコントロールができなくなっていった。こんなにも暑いのにひんやりとし続けたままの彼の唇に熱が灯ることなんてないのに。夏のせいにもできない自分の体の熱さに嫌気がさす。

灰谷くんはこういう人だと、最初からわかっていたはずなのに。こんな男に堕ちるなんて、本当に、最悪だ。


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