宮くんがここにいるなんて不思議な感じだ。こうなるならやっぱりもう少しだけ部屋らしい部屋にしておくんだった。宮くんは少し不釣り合いにも思える花柄のマグカップを手にしながら、大きな体を縮こまらせ大人しくしている。


「…………落ち着いた?」

「すまん」

「ううん、大丈夫」


休日の真昼間。閑静な住宅街の一角に建つここはとても静かで、外を歩く子供達の笑い声が僅かに聞こえてくる。


「ちゃうくて、あの、今まで、すまんかった」


宮くんの口から発されたのはやはり謝罪の言葉だった。いれたばかりの熱い紅茶をどれだけ喉に流しても、その熱は心臓にまでは届きそうもない。こっちを見ない宮くんはまた泣きそうな顔をしながら唇を噛む。もう、そんなになるくらいなら何も言ってくれなくてもいいのに。


「宮くんは何も悪いことしてないよ」


私があんな話を持ちかけたせいで、自分から離れられなかったせいで、彼をここまで悩ませてしまったことはとても申し訳ない。「なんでそんなこと言えるん?」と少しだけ声を強くし俯く彼をジッと見つめる。相変わらず視線は合わなかった。


「みなは何年も俺にいいように使われて、時間無駄にしたんたや」


その言葉に思わず息を止めた。無駄。そう宮くんに言われてしまったことは悔しかった。ここまできたら、もうどう思われていようがいいけれど、私が宮くんと過ごした大事な時間を本人に直接そう言われてしまうのは流石に傷つく。無駄なんかじゃないよ。咄嗟にそう反論をした声はひどく沈んでしまった。

彼から目を逸らす。無駄なんかじゃない。心の中でもう一度そう呟いた。自分に言い聞かせるために。「無駄や。無駄に決まっとるやろ」と、私の反論さえも完全に否定しようとする宮くんにもう一度無駄じゃないと言いたかったけど、今度は唇が震えただけでうまく音にはならなかった。


「大事な期間ずっと、曖昧に躱されて使われて、なんでそんなに冷静でおれんの。こんな歳になるまで都合の良いように扱って、恋だの愛だの分からへんとか言って逃げてきて、本当はもっと早く解放するべきやったって、わかってたのに」


強い口調だったはずなのに、言葉を紡いでいくにつれて、彼の声はどんどん弱々しくなっていく。


「自分が、離れたく、ないからって、みなが、何も言わんことを、良いことに、関係、続けて。勝手に焦って、勝手に結論付けて、勝手に突き放した……」


そう言いながらまたぽろぽろと涙を流し始めた宮くんに驚いてしまう。泣いたことに、ではなく、彼の言葉に、だ。自分が離れたくないからなんて、そんなことを言われるなんて思わなかった。宮くん、と絞り出すように口に出した彼の名前が震える。混乱して視線が右往左往した。


「それやのに今更…………好きや、なんて…………」


宮くんの発言を捉えた瞬間、フッと、焦りも驚きも全てどこかへ飛んでいった。途端に冷静になった頭が先ほどの宮くんの言葉を理解しようと全力で動き出す。好き、と言うのは、私が宮くんに抱いている気持ちと同じなのだろうか。それとも何か違うのだろうか。

冷静になったと見せかけて全然そうではなかったらしく、やっぱり理解が追いつかなかった。思考が感情に追い抜かされて、自然と私の頬にも涙が伝う。そっと両手を伸ばして彼の輪郭を包み込んだ。両の目からこぼれ落ちる綺麗な雫を指で掬って、無理矢理視線が重なるように顔を上げさせる。


「宮くんに好きにならなくても良いし付き合わなくても良いって言ったのは私のほうだよ」

「でもだからって、五年間も良えわけないやろ」

「いいんだよ、全部私が選んで宮くんの隣にいたの。私が、宮くんの傍にいることを選んでたの」


だから無駄ではないし、宮くんがそのことで気に病むことはないのだ。私が好きだったから、そばにいた。好きだから、こうして今も突き放せずにいる。やっと絞り出した小さな声で伝えたその言葉に、瞳を不安定に揺らした宮くんが頬に添えていた私の手を引っ張って思い切り引き寄せた。力一杯抱きしめられる、この感覚が懐かしくて、この温もりが愛しかった。

震える腕を必死に回してぎゅっとしがみつく。ぼたぼたと溢れ続ける大粒の涙が彼の肩の服の色を僅かに変えた。


「みなが側におるのが当たり前やったから自分の気持ちに全然気づかへんかった。まじであほやった。当たり前になりすぎてわかんなくなるくらいみなはもう俺の一部で、好きとか、恋とか、飛び抜けてもう愛しとった。遅くなってすまん、ほんまにすまん」


宮くんの言葉にはいつも嘘はない。だから、信じられる。宮くんの中でどんな変化があったのかは分からないけれど、そんなの今はどうだっていいと思えた。宮くんがそう言うなら、そうなのだ。彼が私のことを好きになるだなんて信じられない事だけど、信じる。言葉にすると何だか変な感じだ。


「宮くん」

「……………………戻ってきて」


ブワッと、コントロールが出来ないほどに感情が溢れてきて表に流れ出していってしまうのは初めての感覚だった。また私の知らなかったものを彼は与えてくれる。

目の前の宮くんのことが愛しくてたまらなかった。嬉しいとこんなにも涙というのは止まらなくなるものなのか。一ヶ月前、涙で目を腫らしたあの時とは全く違う。絞り出したような彼の言葉に何度も何度も頷いて、抱きしめる力を強くした彼に応えるようにこちらからも力を込める。

今まで感じたものとは比べ物にならない程の幸せが襲いかかる。恐ろしいくらいだ。ぎゅうっと掴まれた心臓が甲高い悲鳴をあげているけれど、それを嫌だとは露ほども思わなかった。さっきまでの地の底まで沈んでいた気持ちが嘘のように舞い上がっていた。

心が叫んでいる。宮くんのことが好きだ。この一ヶ月間も、それまでの数年間でさえも、先程の宮くんの言葉を思い出すと全部全部どうでも良く思えてきた。

何度も何度もキスを交わしながら雪崩こんだベッドの上で視線を合わせた。至近距離で見つめあって、ゆっくりとまた唇が触れる。今まで何度も宮くんと交わしたキスの中で一番気持ちが良かった。思考回路がどろどろに溶かされたようになって、もう何も考えられない。


「宮くん」


目を見て彼の名前を呼ぶ。今までベッドの上では一度も口に出したことはなかったから、少しだけ、少しだけ怖かったけれど、宮くんは嬉しそうに笑ってくれた。


「これからはもっとたくさんたくさん呼んで」


そう言った彼に静かに手を伸ばす。宮くん。なるべく優しく、できるだけ柔らかくその名前を口に出し、指先で温かな頬を撫でる。すると宮くんがまた苦しそうに顔を歪めた。


「俺、クソダサ……」


そんなことを言いながら彼が流した一筋の涙は、慰めが必要そうな悲しいものではなく、込み上げてきた幸せを噛み締めるようなものだったから、私はそんな彼が愛おしすぎて思わず笑ってしまったのだった。



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