あの日から一ヶ月が経った。やっと毎日一人だけの生活にも慣れてきた。けれど、どうしても休日の使い方はうまくはならない。家に篭っていても特にすることもないのでとりあえず外へと出る。しかしこれといった目的はなく、結局外でも場所が変わっただけで時間を持て余してしまうことに変わりはなかった。

特に欲しいものもない。でももう少し生活感が出るように良いものがあれば何か買おうか。そう思いながらいろんな店に立ち寄ってみても、これなんか宮くんが好きそうだとか、あの部屋に置いたら合いそうだとか、そんなことを考えてしまうばかりでなんだか気が滅入った。

まだまだ無意識に宮くんの事を考えてしまう。結局私は、あのメールを受け取った日から一歩も動けず立ち止まったままだった。

もうここにいても仕方がない。ジメジメとした気分になるだけだからさっさと帰ろう。そう思って振り返ろうとしたところで聞き慣れた声が耳に入る。いつだって元気で明るい彼の声は特徴的でわかりやすい。思わず背筋が伸びた。心臓がバクバクと音を立てる。少しだけ震えた手のひらを胸の前でぎゅっと握り締めた。

私は彼のことを一方的に知っているだけで一度だって会ったことはない。だから彼は私のことを知らないはずだ。何事もなかったように通り過ぎれば大丈夫。少しだけ緊張しながら歩みを進めた。丁度良いタイミングで通話を終了したらしい彼が、耳からスマホを離し顔を上げる。黙ってその横を通り過ぎようとしたところで、「あ」と短い声が聞こえた気がして少し焦るけれど、顔を合わせたことはないのだからともう一度自分に言い聞かせ、足早にその場を過ぎ去ろうとした。


「みなちゃん!?」


後ろからガシッと掴まれた肩に置かれた手は、痛くはないものの物凄い力で振り解けそうにない。突然自分の名前を呼ばれ、心臓が飛び出るかと思いながら、ゆっくりと肩を掴む人物を震えた体で振り返った。


「やっぱりだ!」

「……なんで」

「俺のこと知ってるか?」

「はい、あの、木兎選手……ですよね」

「そー!」


私が木兎さんを知っていることに関しては、別に何もおかしくはない。けれどどうして彼は私のことを知っているんだろう。その疑問を素直にぶつけてみれば、ツムツムが前にみなちゃんの写真見せてくれたと言うので驚きだ。宮くんが周りに私のことを話していることにも、いつの間にか私の写真を撮っていたことにも。


「……これからも応援しています。頑張ってください。では」

「え、帰んの!?何かこれから用事?」

「特に、ないですけど……」

「じゃあ来なよ。ツムツムもいるぞ」

「え、い、や、無理です無理です!私は宮さんと何も関係ないので」

「すげー普通に嘘つくな!」


ぐいぐいと背中を押す木兎さんの力に私が敵うわけがなかった。本当にもう帰りますからと何度言っても人の話を聞く気がないのか、楽しそうに私の手を取って逃さないとでも言うように前を歩いていく。

彼は迷うことなく私を引き摺りながら店内へと足を踏み入れた。ブレーキをかけるように最後の抵抗を試みるがびくともしない。挙げ句の果てに「ツムツムー!」と宮くんを呼びながら手を振り出すから、血の気が引くようにサッと全身が冷たくなる。もうどうしようもならないことを悟りながらも、大きな背中に隠れるように身を潜めた。


「迷惑やから!聞こえとるから、何!?」

「いた!いた!」


彼の声を直接聞くのはいつぶりだろうか。約三ヶ月、彼とは顔を合わせていない。たったの、たったの三ヶ月だ。なのに彼の声を耳に入れた途端に鳥肌が立つように全身が震えた。なぁ、みなちゃん!と、木兎さんがこちらを振り向くと同時に目の前から退いた。開かれた視界の先には、一番会いたくて、でも一番会いたくなかった彼の姿がある。

見慣れた金髪が揺れた。重そうな二重が見たことがないくらいに見開かれる。とんと背中を押され彼の前へと立った私は、どうしていいか分からずにただその場に立ちすくむだけ。視線は、合わせられなかった。彼は何も言わない。宮くんの前に立つことがこんなにも怖いと感じるのは、きっと、初めてのことだ。

高校生の時に初めて彼に話しかけた日も、卒業式のあの日も、ベンチで項垂れている彼にもう一度話しかけたあの日も、こんなことを感じたことはなかったはずなのに。

彼の震える唇が僅かに動く。ゆっくりと視線を合わせた。好きだ。誰よりも。何よりも。今だって。だからこそ、その唇から何が発せられるのかが分からないことに恐怖を覚え、先に自ら言葉を発した。


「宮くん……」


蚊の鳴くような小さくて弱々しい声になった。彼の名前を口に出すことはこんなにも勇気がいることなのだ。ジワッと溢れてくる涙を絶対にこぼさないように手のひらを強く握りしめた。瞳の奥が燃えるように熱い。なのに、心の奥は凍てつくように冷たかった。

気を利かせるように木兎さんともう一人の子がそっと出ていく。何か言わなきゃとも思ったけれど、うまく頭は回らなかった。

向かい合って座る私たちの間に会話なんてものはない。お互い黙り込んだまま、ジッと体を小さくさせ目も合わさずに俯くだけ。このままここにいても仕方がない。どちらかが何かを切り出さない限りきっとずっとこの状態のままだ。

迷惑だよねと一言謝りながら席を立つ。なるべく暗くならないように明るい声を出そうと思ったのに、取り繕うことさえもできずに、ただ震えた精一杯の声が発されただけだった。


「っ迷惑なんかやあらへん!」


宮くんが、咄嗟に私の腕を掴んだ。立ち上がりかけた私の体はそのまま再度椅子に沈む。恐ろしく冷えた体は宮くんの熱い手のひらの温度を嫌というほど伝えてくる。少し裏返った宮くんの声が、私と同じように少しだけ震えていたのが不思議だった。

もう会わない方がいい。と、そう伝えてきたのは宮くんの方じゃない。どう考えても迷惑だ。たった五行と二行のやり取りで終わった私たちが、このあと一体何を話せばいいんだろう。思い出を楽しく語ることなんて出来ないし、今までの時間を謝られてしまって改めて彼の口から直接終わらせられるのは、まだ宮くんへの気持ちに取り憑かれている私には耐え難いことだ。

固めたはずの決意はもうとうに崩れ去ってしまったのだ。自分から持ちかけたのに。宮くんが望むならいつ離れてもいいと思っていたのに。

身体のど真ん中を貫くように突き刺さった刃が感情を抉る。だめだ。これ以上、宮くんと一緒にいるのはだめだ。私は強くなんてなかった。あんなことが思えていたのは、何もかもの経験が足りなかったからだ。わからないから想像ができなかった。宮くんと関わることで得た色んな感情や経験が重くのしかかる。


「……ごめんな」

「ううん、宮くんが謝ることじゃないから」

「違くて……あの、一回だけ、ちゃんと話ししたい」


途切れ途切れに話す宮くんの声は、聞いたことないくらいに弱々しかった。俯いていてその表情は見えない。

話したいって、一体何を。私はもう今更話すことなんてないと思っている。宮くんが考え抜いて出した答えが今の私たちだと言うのなら、もう私はそれ以上口は出せない。それに、ただシンプルに、宮くんの話を一方的に聞くことは、やっぱり今はどうしても怖いんだよ。

正直にもう話すことは何もないと告げようとしたところで、パッと宮くんが顔を上げた。

鼻の頭を真っ赤に染めて、情けなく顔を歪ませる。潤んだ瞳に驚いて思わず口をつぐんだところで、その大きな瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。


「み、宮くん……?」

「みな、あんな、俺……」

「っ、移動しよ、とりあえず」


ぐずぐずと壊れたように涙を流す宮くんの手を取って立ち上がる。こんな場所でこうして注目を集めるのはなるべく避けたい。早足に歩きながら、ここからなら徒歩で向かえる私の家を目指した。

話すことなんて何もないと思っていたくせに。こうして彼の弱いところを見せられると途端に断りきれなくなる。彼の話を聞いて本当にどうするんだろう。

これ以上に傷つくことをこんなにも私が恐れているのは、私はこれ以上に傷ついたことが未だからだ。未知数だからこそ怖い。宮くんの手を引くことは、経験がないこれ以上の絶望に自ら向かって歩いていく事と同じだ。散々泣いた一ヶ月前。あの日のことを思い出しながら、宮くんの温かい手のひらを強く握りしめた。

宮くんは、いつだって温かい。どんな状況でも離れ難くなるくらいに。



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