目が腫れるほどに泣く経験は初めてだった。目だけではなく、顔中がパンパンに腫れている気がする。鏡を見ながらあまりの酷さに思わず笑いそうになるくらい。けれどとてもじゃないけど笑えなかった。こんな顔で外に出るのは流石に抵抗があるけれど、タイミング悪く今日から仕事が再開される。冷水で顔を冷やして、少しでも腫れが引くようにいつもよりも念入りに顔のマッサージをした。

一人だとしてもきちんと食べていた朝食を抜いた。今までは宮くんが健康に気を遣っているから、たとえ一人の時でもこちらも気を抜かずにいないと一緒にいる時にもサボりがちな習慣がついてしまうと恐れてきたけど、もうそんなことは考えなくてよくなった。

鞄がずいぶんと軽い。その中には一体何が入ってるのと興味深そうに職場の人たちにも定期的に聞かれていた大きなカバンは持たなくていい。宮くんの家に泊まる時用のセット一式ももう必要なくなった。

チャリっと軽い音の鳴るキーケースを取り出す。鍵がたった一個減るだけでこんなにも軽くなるのだろうか。宮くんから貰った合鍵ももう持って出なくてもいい。勝手に捨てられもしないから自宅のスペアキーと一緒に目につかないところにしまってある。自宅の鍵なんていう大事なものを本当にもう関係の無い私が持ったままでもいいのか、取りに来るか返しに行くか、それともしっかり処分した方が良いのかと聞きたいが、正直もう連絡を取る勇気も気力も残っていない。


「筑波さん顔腫れてる?」


出社直後からめざとく気がついたのは出張にも一緒に行った先輩だ。心配するように私の顔を控えめに覗き込んだ後、眉間に皺を寄せそう聞いてきた。


「少し腫れてますけど、心配いりません」


拒絶的な言い方をしすぎてしまったかと心配になったが、先輩はどうやらそれに関しては気にしていない様子だった。少しじゃないでしょと言う顔をしながらも、もうすぐ業務開始時間だからか「そう?」なんて言って自分のデスクへと戻っていく。久しぶりの仕事にほっとした。こうして何かに没頭することで無理矢理思考回路を宮くんから切り離せるからだ。


________________


宮くんのあの報道から三日が経った。彼からも相手の女優からもすぐに交際の事実はないと否定があった。テレビではもう忘れられたかのように一切取り上げられないが、ファンの中では今も少し話題になっていた。

夕食を適当に済ませてお風呂の中でぼーっとする。彼女との交際が事実か事実でないかなんて、わかったところで私に関係ないことには変わりないのだ。

宮くんは、ずっとずっと悩んでいた。私との関係。周りがしっかりと先の事を考え始めたり、一人の人と将来を誓っていく中、自分自身のことを改めてよく考えることで迷いが出てきたのだと思う。

そうして出した答えが私に別れを告げることだったのだ。宮くんが悩み考えた結果、私との未来は思い描けなかったということだ。

のぼせそうになる直前で慌てて風呂から上がる。さんざん泣いたはずなのに油断すると溢れそうになる涙を隠すようにシャワーで流した。


________________


あの日から一週間。宮くんはようやくSNSの更新を再開した。他のチームメイトも以前のように宮くんの様子を載せ始める。変わらない笑顔の宮くんの写真が見れるのは嬉しい。彼の姿を見ることで辛くなったり苦しくなったりするのかなとも思ったが、意外にもそんなことはなかった。むしろほっとしている自分がいる。元気そうでよかった。

少しだけ疲れている顔をしているのが気にはなるけれど、あんなことがあった後ではそれも仕方がないんだろう。その疲れもきっと宮くんのことを常に見ている人じゃないとわからないくらいの些細なものだ。隣に写る木兎さんは宮くんの肩に手を回し大きく笑っている。微笑ましいその写真をカメラロールへと保存した。

未練がましい。そう思われるかもしれないけれど、やっぱり私は宮くんのファンなのだ。彼が嬉しそうだと嬉しい。楽しそうにしている姿が見たい。悲しんでいる姿は見たくないし、私がいることで悩んでしまうのならやっぱり離れた方が良かったのだと今ならしっかりそう思える。

宮くんとの関係が終わったあの日、あの写真が載ったあの日、私は宮くんとの今までの時間を後悔した。今ではそのことを後悔している。

宮くんなんていうすごい人が今まで何年も私をそばに置いてくれていただなんて今考えると信じられないことだ。それ以上の贅沢を望もうとしていたなんて、そんな自分に驚いてしまう。


『元気ー?』

「元気だよ」

『良かった!今私たち二人でいるんだ。時間あるなら三人で喋ろーって思って』


休日に突然かかってきた電話は、あの二ヶ月で出来た大事な友達だ。離れていてもこんなにも私のことを気にしてくれる。

宮くんは、遠征に行ったり合宿に行ったり、時には海外リーグに出場するために長期間家を開けたりしていたけれど、結局その間は私とは何もやり取りはしなかった。私からも提案したこともないし、バレーボールに打ち込んでいる間は私のことなんか考えずにそのことだけを考えていてほしいとも思うから特に気にしていなかったけど、それも今になってなんだかおかしい話だということがわかる。

一緒にいる時はそれだけで良かったし、望みすぎてはいけないと常に思っていた。けれど離れた今、自分たちの今までを客観的に見れる立場になって初めて、私たちの関係の本当の歪さが丸わかりになった気がした。感情や関係には必ずしも正解なんてものはない。それぞれいろんな形があって、同じものなんてないと思う。けれど間違いはあるのだ。その基準だってその人たちによって違うことは確かだけれど、ほとんどの人がそれはどうなんだと首を傾げる関係に私たちは在った。


『そうだそうだ、さっきの話みなも聞いてよ!』

『まぁたあの話すんの?もう何回目よ。みな、いつも通りのただの惚気だから、ウザかったらウザイって言っていいんだからね』

「いいよ、私は聞くの好きだよ」


二人の口からは私には経験したことがない話がたくさん出てくる。この前デートをしただとか、記念日を一緒に祝ったとか、喧嘩をして仲直りをしたとか、お揃いのものを買ったとか、付き合う時はこういう告白をしたとか。自分自身のことだったり、他の友達の話しだったり、赤裸々になんでも話してくれるそれを聞きながら、大体の人はそうやって恋愛をしているんだなぁということを知っていく。

卒業式の日にやっと名前を聞かれただとか、数年経って初めて一緒に外食をしたとか、未だメールアドレスと電話番号しか知らないとか、そんな私たちのことはとてもじゃないけど話せなかった。

やっとわかる。私がどれだけ思考に蓋をしながら見てみぬふりをして宮くんに接していたか。宮くんが私にどれほど関心がなかったのか。



- ナノ -