三、津軽


こいつに出会ってから季節がひとつ過ぎた。春は夏となり、薄く柔らかに芽を出した緑は力強くその土地に根を張る。

俺とみょうじはあれから何度か顔を合わせたが、特に何事もなく関係は何一つとして変わっちゃいなかった。ただ、少し前までよりは大分普通に話が出来ていると思う。それに関してはきっと、みょうじが変わった訳ではなく、お互いに歩み寄った訳でもなく、ただ、俺がみょうじに対する警戒心をほんの少し、たった少しだけ解いたから。

元々こいつの纏う空気感は嫌いでは無かったんだ。話すときは話す、黙るときは黙る。元々俺がそこまで喋るタイプではないから、ほとんどこいつが喋って俺が相槌を打つ程度だが、その頻度も、求められる返答の数も、話題もお互いに無理なく行われている。話の合間に出来るその沈黙も、特に苦ではない。

絆されているのとは、また違うと思う。カチャ、と控えめな音を立てて持ち上げられたカップに口をつけるみょうじを目で追った。はらりと前に落ちた横の髪を静かに耳にかける指先は、やはり今日も念入りに手入れがしてあって綺麗だ。

埃のない、落ち着いた色合いで統一された部屋を見渡した。他人の部屋に入ることはなるべく避けたい。そう思っていたのに。こいつがフと閃いたような顔をしながら「次は私の家にでも来る?」と聞いてきた先週、気が付けば俺は首を縦に振っていたのだ。


「私の顔に何かついてるかな」

「…………」


目を逸らす。みょうじが笑う。なんとも言えない空気が流れる。だがそれを少しだけ気まずく思っているのは俺だけのようで、みょうじはクスクスと可笑しそうに口元に手を当てながら控えめに笑い続けるだけ。


「何がそんなにおかしい」

「ふふっ」


俺の問いかけに答えることもせず笑うことをやめない。奇妙なものでも見るような目つきで睨めば、少しだけ眉を八の字に下げ「ごめんね」と謝る。変わっちゃいないと思っていたが、みょうじはよく考えると数ヶ月前に再開したときよりも表情が豊かになった気がする。ただ単に俺が認識していなかっただけなのか、みょうじも段々と肩の力が抜けてきたのか定かではないが、なんとなく、後者ならいいと思ってしまってハッとした。


「………」

「すっごい怖い顔してるよ」

「お前といると調子が狂う」


体の内側がもやもやと煙にまみれるように、自分の考えていることの何が正解で、そもそも自分の本心がどこにあるのかを見失いそうになる。それなのにみょうじはその煙の中にある俺の本音を引き出そうと的確に攻めてこようとするから厄介だ。


「佐久早くんはさ、人を好きになるのが怖いんだよね」


ほら。そうやって。解ったように笑う。


「怖くなんか」


無い。はずだ。怯えている訳ではない。その感情にもこいつにも。だが一歩踏み出せないのもまた事実で。それがまた俺を苛立たせる。


「佐久早くんは、バレー好き?」

「別に」


好きだとか嫌いだとかそんな次元でやってない。俺にとってバレーボールは永遠に続く興味の対象であり、始めてしまったからには、その全てに出来得る最大限度の手を尽くし、納得の行くまで取り組みたい。そう思っているだけだ。


「例えばバレーボール。例えば掃除。それらは自分がやめようと思わない限り終わることがないでしょ。怪我とか、不慮の事態で仕方なく終わることはあるかもしれないけど」


佐久早くんがもしも今、バレーボールを選手としては引退したとしても、これからも関わっていくやり方はいくらでもあるよね。俺の目をじっと見つめて、ゆっくりと、聞き取りやすい音量で話すみょうじの声はしっかりと脳内に留まって流れていかない。こいつは話し方が上手いと思う。頭が良いからだろうか。


「自分自身が満足するまで、時間も気持ちも全て賭けられる」


すぅっと細められた目尻が柔らかく垂れた。控えめなメイクが施されたそこが淑やかに煌めく。


「でも恋愛は、自分がいくら頑張っても、終わらせたくないと思っても、どうにか続けようと思っても、相手が拒絶してしまったらそこで終わり。人の心は思う通りにはいかないんだよ。突然終わることもある」


微笑を浮かべ柔らかな空気を纏うみょうじを前にしたら、苛ついていたはずの感情はどこかへと消え去ってしまった。この雰囲気に飲まれたら終わりだと、何度も思った。春の風に包まれて気持ちの良さそうに舞い踊る桜の花びらのように、未だ経験したことのない暖かな感情が揺蕩う。

それが、佐久早くんにとっては少し怖いんだよね。綺麗なソプラノが鼓膜を震わせる。その振動がみょうじの声と共に全身に駆け巡って心臓に住み着いた。


「……俺は慎重なんだ」

「同じだね。私もそうだよ。だから、こうやって何年もかけて佐久早くんに近づいた。離れてからも何年も想い続けたの。私の気持ちは終わらないよって、佐久早くんに解ってもらうために」


一度閉じられた目蓋が、睫毛を震わせながらゆっくりと再度持ち上げられた。伏せられていた瞳がこちらを向いて、しっかりと視線がぶつかりあう。俺とみょうじの間に張られた糸がピンと真っ直ぐに伸びるように、俺たちの間には均一の力がかかっていてそのどちらにも傾くことはない。引っ張りすぎて切れることも、緩めすぎて地に落とすこともなく、理想的な距離感を保ち続ける。


「お前の話は難しすぎる」

「そうかな、簡単だよ」


私は佐久早くんが始めやすいようにってずっと考えて、頑張ってきた。抜かりなく。

どうだったかな?と試すように笑ったみょうじが口元へと添えた手のひらに自分のそれを伸ばして掴んだ。相変わらず滑らかな肌から伝わる体温が、冷房で冷やされた指先を優しく溶かしていく。


「なんでそこまでして俺なんだ」

「そこに理由って必要?」


じゃあ、なんで佐久早くんはバレーボールを選んだの?そう聞かれてしまえば俺が黙り込んでしまうのをこいつは解って言っている。口を閉ざした俺に向かって、一瞬だけ微笑んだみょうじがゆっくりと薄く色が乗った唇を動かす。


「本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ」


凛とした声を響かせ、射抜くように焦点を俺の両の目で静止させた。張り詰めた空気がチリチリと肌を焦がす。思わず息を止めた。そしてしばらくが過ぎた後、いや、もしかしたらすぐの事だったかもしれない。かち合った視線のその先がふっと弧を描いて、止まっていた時間が動き出した。

思い出したかように息を大きく吸い込んだ俺を見て、あはは、と大きくみょうじが笑う。その表情をもっと見たい。そう思ってしまった。

何事も控えめ。そう見えるだけで実はかなり大胆。覚悟を決めどっしりと構えた瞳は、固く砕けることの無い大きな意志を俺に訴えかける。その上に佇むみょうじは一輪の花のように優しく揺れる。百合のような派手さはなく、かと言ってシロツメクサのように小さく可愛らしいものでもない。


「どう?佐久早くん」


生唾を飲み込んだ。俺は、この花が欲しい。

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