二、侏儒の言葉


カランと冷たい音を立てて扉を開いた。柔らかい日差しを浴びながら本を読む女の姿を捉える。俺の存在に気がついたのかフッと笑いながら顔を上げたその顔を直接見るのは数年ぶりだ。けれども特別懐かしさを感じることはなかった。毎年毎年、呼んでもねぇのに俺の思考の中に入り込んできやがるから。


「久しぶり」

「…………」

「ずいぶんひどい顔をしてるね」


パタンと閉じられた小説に挟まる栞は、あの花の押し花だった。そんなところもまた憎い。顔を歪めた俺を可笑しそうに見る目の前の女は、「座りなよ」と突然現れた俺を前にしてもずいぶん余裕そうに佇んでいる。

無言で椅子を引いた俺の目の前に差し出される珈琲。頼みもしてないのにどうしてと店員を見上げると、にこりと笑って戻っていった。「佐久早くん、飲むならブラックって言ってたよね」なんて、高校の時にそんな話はした覚えはないのにとまた一段深く眉間に皺を寄せれば「どっかのインタビューで答えてるの見たよ」なんて口元に手を添えてふふっと記憶に残る笑い方をした。


「単刀直入に聞くが」

「うん?」

「俺のことはまだ好きなのか」


我ながらダサい質問だと思った。一人で切羽詰まって空回っている脳みそが上手く働いてくれない。こちらをじっと見据えて口角を上げたまま黙り込む女がゆっくりと口を開く。ゴクリと唾を飲み込んだ喉が鳴った。


「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である」

「またどっかの誰かの一節か」


ニコニコと、笑顔を崩さない。俺の質問に答えろ。と、またイラつきながら言葉を投げかけるもそれには何も言わずに「慎重にね、行くんだよ」と静かに笑うだけ。


「佐久早くんはどう?私の事好き?」

「知らない」

「そっか」

「けど、気になる存在ではある」


ふふ。とまた花びらがこぼれ落ちるように笑った。「ゆっくりでいいんだよ」と可笑しそうに微笑むその顔が何故か憎く感じた。掌で踊らされているようなこの感覚はどこかそわそわする。思う通りにいかない。だがこいつの思う通りに動かされている。それがまた悔しかった。


「ねぇ、佐久早くん」

「なんだ」

「佐久早くんの興味を引けるって、凄いことだと思わない」

「は?」

「行こうか」


すみません、と手をあげて席を立つ不可解な女を目で追った。何を考えているかわからない。何を考えているかわからないから、気持ち悪い。知りたいと思う。

いろんなやつに囲まれていたこいつは、決してこんなふうによくわかんねぇことを言っているやつではなかったはずだ。湧き上がる苛つきを抑えるように浅く一度息を吐いた。

理由もなく他人に触れることなんて早々しない。それも女の。それでも気がつけばカランと音を立てて開いた扉を支える俺よりも小さな手を握っていた。「ここだと邪魔になるから、外出ようか」と笑ったこいつが俺の指先をそっと握り返す。ぞわぞわと這うような気持ち悪さは感じなかった。


「どうして」

「なにが?」

「なんでだ」

「………さぁ?」


自分でも理解ができない。この行動も、湧き上がるこの高揚感の意味も。


「むかつく」

「ごめんね?」


何年もかけてまんまとこいつの思い通りに動かされてたのかと思うと、ふつふつと怒りが込み上げてくる。触れた指先から伝わる柔らかい熱が、またどうしようもなく心の奥を小刻みに奮わせた。

滑るように滑らかなその指先は日々欠かさずに手入れをされていることがわかる。風に舞ってふわりと香る匂いはキツすぎず、他人を不快にさせることはない。シワのないワンピースを身に纏った女がくるりとこちらを向いて、「そういえば私の名前、みょうじなまえっていうの」なんて唐突に口を開いた。


「なんで今」

「今だからだよ」

「興味ない」

「うん。だから、興味持って欲しくて」


こんな変なタイミングで。一体どうして、と考えることが負けだと分かっているのに考えられずにはいられなかった。頭に残るやり方でこいつはいつだって俺に接してくる。計算されているのかそうではないのかは定かではないが、つくづく厄介だと思った。花の呪いも、名前のタイミングも、剥がれ落ちることなく存在し続ける。確かな記憶として。


「あまり深刻に扱うべきではないけれど、だからといって気を抜いて軽く扱っていると、大変なことになる」

「何が言いたい」

「私はね、佐久早くんのマッチになりたい」

「は?」


何言ってんだ。頭がイカれてる。そう思ったところで、先程投げかけた問いの返答を思い出した。

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。


「俺の人生に食い込もうっていうのか」

「ふふ」

「頭おかしいんじゃないか」


でも、もう佐久早くんは、私のこと忘れられないでしょ。

そう言って笑った女にゾッとしつつ、未だ握ったままだった手のひらに力を込めた。乾燥している様子はなく、程よくしっとりとしているそこからは、ハンドクリームの何かの花の匂いがする。


「私はね、佐久早くんのこと、まだ好きだよ」


あぁ、馬鹿野郎。ここでまたそれを言うのか。こいつの口から出る言葉にどんどん縛られていく。俺の思考回路を狭くして、心臓を掴むようにして離れない。


「みょうじ」

「なに」

「……なんでもない」


ふふ。また笑ったこいつのその表情が目に焼き付けられた。くそ。言葉も、笑顔も、名前も、記憶も、こいつの全てが呪いとなって、また俺に降り注いでくる。

気がつくと俺たちの足元で揺れていた一輪のポピーが色鮮やかにその存在を主張した。検索した花言葉が一瞬頭を過ぎる。呪いをかけられている相手に恋の予感だなんて、俺はまだまだ信じない。

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