四、歓楽
熱い空気がどんどん窓から排出され、濁流のように勢いよく押し寄せてくる冷たい風が容赦なく肌を刺した。冬の透き通った空気の奥に広がる黒が辺り一面を覆い隠して、その闇の中で命を燃やすように存在を主張し続ける月と星だけが明るく浮かんでいる。
「身体、冷やさないでね」
暖房を付け閉ざされた室内に籠る空気は淀んでいる。それを定期的に入れ替える為に、こうして窓を開けている俺の隣にそっと立ったみょうじの指先が俺の腕を掠った。氷のように冷えてしまっているそこにさすがに罪悪感を覚え、十分に換気されただろう室内の冷えた空気を再度暖めるために、窓を閉め暖房の設定を最大にし起動させる。
「いつまでそこにいるの?」
ゆっくりとソファへと座り、首だけで静かに振り返ったみょうじの顔には化粧は施されていない。昼間見るよりもだいぶ幼いその顔つきは高校時代を思い起こさせ、僅かな背徳感を覚えた。
その横へと腰を下ろす。沈んだソファが少しだけ軋んで不快な音を立てた。そっと俺の方へと体重を掛けたみょうじは、手に持っていた小説をぱらぱらと捲りながら適当なページで止める。小難しい文字が並ぶそれを同じように目で追いながら、右肩に感じる重みをさらに強く引き寄せた。されるがままに俺にその身を委ね、安心し切ったように疑うことなく腕の中へと収まる。
「俺のことを信頼しすぎじゃねぇのか」
一瞬だけ考えるように動きを止め、すぐに「あぁ」と頷きながら笑ったみょうじは、体を回し頭を押し付けるようにして片腕を俺の背中へと回した。
「始めちゃった佐久早くんはもう戻れないでしょ」
してやったように口角を上げて俺の顔を見上げる。挑発的な熱の籠った視線が心臓の柔らかい部分を撃ち抜くように飛んできた。
「苦痛も感じなければ嫌悪感もねぇ。終わらせる理由が今のところない」
だから、一緒に居る。それだけだ。一般的な男女が共に過ごす理由としては如何なものか。恋だの愛だのという、大多数の奴らが持っているその感情を果たして俺がみょうじに感じているのかはここまできても定かではなかった。
「お前は本当にそれでいいのか」
「いいんだよ」
柔らかく目を細め、捉えたものの全てを包み込む慈しむような眼差しを向け俺の名前を呼ぶ。「佐久早くん」、と転がるように弾む綺麗な響きを持たせたその声は、乾いた布に水を垂らすようにジワっと広がってどんどんと俺の中へと侵食していった。
「俺は今でもみょうじの考えてる事が全然わかんねぇ」
好きだと言ったり、それでもいいと言ったり。欲が無いようでいて驚くほどに貪欲に俺を求める。計画的に、長い年月をかけ俺の懐へと忍び込んできたこいつこそ、手放さないようにと必死に俺へと手を伸ばしながら終わりを遠ざけるように過ごしているようにも見えた。
「他人の考えなんてわかるわけない。だから楽しいの」
「……わかんねぇ、もっと簡単に言え」
顔を歪める俺を愉快そうに視界に入れたみょうじは、薄い唇をゆったりと動かして心地の良いテンポで言葉を刻む。
「恋をしたら相手の気持ちを確かに知りたいと思う。でも、どんなに近くても、たとえ血が繋がってたとしたって他人は他人なことに変わりはないから、私はその人の気持ちを知ることよりも、その人と関わって自分がどう変わったかが一番大事だと思ってるの」
「……俺は何も変わってねぇ」
「そうかな」
「…………」
氷のように冷えていたはずの指先はもうすっかり熱を取り戻している。触れた肌と肌が交わって、お互いの皮膚の表面を溶かした。
肩に埋められた頭を引き寄せ顔を上げさせる。滑らかな頬に手を滑らせ、骨格をなぞるようにその形を確かめた。睫毛を震わせながらゆっくりと閉じられていく。その瞳に近づいて、唇が触れ合うのを許した。こんな風に誰かに触れるなんて考えられなかったのに、この行為に取り憑かれたように離すことができない。
何度か押し付けあったそこに再度近づこうとした時、するっと割り込んできた手が俺とみょうじの間に壁を作った。顔をしかめる俺を気にもせず、その手のひらを退けないそいつにチッと小さく舌打ちをしながら、「なんで阻む」と誰が聞いても不機嫌なことがわかるような声を出せば、また可笑しそうに「佐久早くん、ちゃんと変わったよね」と俺の心を見透かしたように笑いやがるから少し距離を取って顔を背けた。
「私はね、佐久早くんを好きになったあの日から毎日が楽しくなったよ。色んなことを知って、色んなことを考えた」
世界が変わったような気がしたの。なんて、大袈裟な言い方をするのはこいつの悪いところだ。
「月の光も雨の音も、恋してこそ初めて新しい色と響を生ずる」
「……またか」
「どう思う?」
「わかんねぇよ」
「はは、そっか」
風鈴のような音色で笑ったみょうじのその口を再び自身のそれで塞いだ。先ほどよりも強引に触れたそこからは熱を増した吐息と共に官能的な音が漏れる。その声をもっと聞きたいと思った。手入れの行き届いた、汚れのないその肌にもっと触れたい。
「もっとこっち来い」と交わしたキスの合間に小さく呟けば、言われるがままに両腕を俺の首の後ろへと回してより密着度が増す。
「……みょうじの笑い声とか、記憶に残るようなその言葉とか、読めない表情とか、うぜぇとしか思えなかった。だが言われてみれば確かに、前と今じゃ受け取り方が多少変わったような気がする」
柄にもなく、こうやってペラペラと動く口だとか。
「月の光も雨の音も、そんなものに興味はない」
どんなに人々が目を奪われるような満天の星を見たって、この世のものとは思えない程に見惚れる月が真上に存在したって、興味がないものには心は動かせない。
「みょうじ、」
「うん」
俺の言いたいことがわかったのか、ゆっくりと口元を持ち上げたみょうじが、また沁み込むようなソプラノを奏で俺の身体の芯へと纏わりついた。
「好きだってただ言われるよりも、何倍も嬉しいよ」
心が動かせないのだ。目の前に咲く一輪の花にしか。