一、化粧の天使達


「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。って、知ってる?」

「どういう意味」


ふわり。春の空に浮かぶ雲のような柔らかさで微笑んだそいつは、そのまま言葉を止めて俺の返事に答えることはしなかった。三月の半ば、春の初め。制服を着ることが許される最後の日。まだ少し肌寒い風が、そいつのスカートの裾をわずかに揺らした。

体育館へと向かう途中にある短い渡り廊下の傍にひっそりと佇む花壇。その前に座り込んでいたこいつは、通りかかった俺の名前を呼んで小さく手招きをした。顔も名前もちゃんと知っているクラスメイト。そんなに人と話す方ではない俺でも、こいつとは何度か会話を交わしたことがある。

騒ぐタイプではないが、決して物静かなわけでもない。いつだってゆったりとした時間が流れているような空気を醸し出す。気を張ったり、特別気取る必要もないと自然と思わされるからなのか、不思議とこいつの周りにはいつも誰かしら人が居た。特に好きだとも思ったことはないが、こいつのその空気感は俺も嫌いではなかった。


「この花の名前、なんだかわかる?」

「……俺が知ってると思うのか」


たぶんこれで最後だというのにぶっきらぼうすぎたかと、さすがの俺でも少し悪く思いながらもそれ以上は口を開かずに大人しく次の言葉を待つ。それなのにこいつは何も言わないどころか、急にしゃがみこんでその花を摘み取った。一体何をしているんだとその行動を黙って見つめていれば、ふふっと笑ったそいつは「はい」とその花を俺に寄越した。


「どういうこと」

「この花、あげる」

「は?」


こいつはこんなにも話の通じないやつだっただろうか。しかし今現在の彼女の佇まいから察するに、きっと俺が受け取るまで差し出し続けてくるだろうと思ってしまうくらいに頑固に思えた。受け取りたくないが、仕方なくその花を受け取る。と、もう一度嬉しそうに笑ったそいつが「佐久早くん」と俺の名前を呼んだ。


「私ね、三年間ずっと佐久早くんのことが好きだったよ」

「………そう」

「うん。それだけ。またね」


花のようにふわりと笑って、春の風のように去っていった。手に残された一本の花の名前も知らないまま、俺はそいつに別れを告げることもなく離れたのだ。

あの日から毎年、その花を見る度にそいつのことを思い出す。道端にそっと咲いているそれを見つける度、花屋の店先に並んでいるのを見る度、浮かぶのはあいつの顔とあの時言われたあの言葉。

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。

こういうことか。と思わざるを得なかった。気になって以前調べてみたら、有名な小説家の書いた一節だということを知った。

言うならば、これは呪いだ。絡まった蔦のように俺の頭の中からいつまでも離れない。何年経っても鮮明に蘇ってくるその記憶はいつだって俺を当時に引き戻す。その度にもやもやとし出す気持ちを抑える方法を俺は未だに知らない。足元で心地良さそうに風に揺れているその花は、縛りつけられたように動かない俺の気持ちとはまるで正反対だ。

いつの間にやらかけられていた、この世で一番厄介で綺麗な毒みたいな呪い。それを解く術は俺一人では導き出せない。さようならではなく、「またね」と笑ったあいつの最後の言葉がぐるぐると頭の中を流れた。

そうだ。俺は別れを告げなかった。あいつも、思い返せば最後の別れは告げなかったじゃないか。


「……くそ」


ポケットの中に入れていたスマホを取り出して電話帳を開く。こんなにどうしようもない気持ちにさせるような言葉を残していくだなんてずいぶんと嫌な女だ。コール音が途切れた瞬間、相手が口を開く前にこちらから先に話し出せば「おい、どうした?」と電話の向こうのやつは珍しく慌てたような声を出した。


「高校の時のあのクラスメイト、連絡先知ってるだろ」

『あぁあの子ね、知ってる知ってる。でもこんなに突然どうかしたわけ?』

「お前には関係ない」

『えぇ?酷くないかそれ?』


通話を切ってすぐにメッセージアプリを開く。古森元也と書かれた見慣れた名前のトーク画面に送られてきた連絡先をタップすれば、毎年毎年この時期になると俺の頭を支配してきたやつのアカウントが表示された。


「…………こいつ」


設定されたアイコンの写真は、今も俺の足元で揺れているものと同じ花。狙っているのか偶然なのかはわからないが、どちらにせよやはりずいぶんとタチが悪いやつだと思った。

勝手に友達に追加して、勝手にトーク画面を開いて文章を打ち込む。久しぶり、元気にしてるか、なんてありきたりな挨拶なんてものはしない。ただ一言、「あの呪いを解く方法を教えろ」。それだけ。それだけの脅迫文じみた一文を送った。

既読はすぐに付いた。けれど「ひさしぶり」と返信が来たのはそれから二分程経ってからだった。俺の質問に答えろ。俺はそんな言葉が聞きたいんじゃねぇ。イラつきながら受話器のマークを押してすぐに通話に切り替えた。2コールもしないうちに繋がったそれからは「ふふ」と楽しそうに笑う声が聞こえる。


「花の名前、わかった?」

「………ポピー」

「うん、正解」


耳元で鈴のように鳴る女の笑い声が、遠い記憶のそれと一致してさらに強く頭の中に刻み込まれた気がした。


「ちゃんと思い出してくれたんだね」

「ふざけんな。直接文句言わねぇと気が済まない」

「ふふ」

「…………今どこで何してる」


佐久早くんのチームの最寄り駅の、駅前のカフェにいるよ。その言葉を最後まで聞き終える前に歩き出した。ここからなら電車に乗れば二十分ほどだ。


「もしかして今から来るの?」

「そこから動くな」

「ふふ、わかった」


電車に揺られながらその花を検索してみる。うざいくらいに脳にこびりついたそれの紹介ページに書かれた花言葉を見て思わず顔を歪めた。チッと響かせた舌打ちは、暖かでのどかな春の初めの空気に溶けて儚く消える。

陽気で優しい、恋の予感。俺に消えない呪いをかけたあの女が、また笑った気がして憎かった。


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