目の前に立ちはだかる高い高い壁。高すぎる壁。正直話しているだけで首が痛くてたまらない。


「白馬さん、すみませんちょっと座ってもらってもいいですか」


申し訳なさすぎるお願いである。だけどもこうしてずっと話していると、私の身長では首がもげそうになる。近くで静かに私たちの会話を聞いていた百沢さんが気を利かせて椅子を持ってきてくれた。


「うーんなんか、こうやってみると宇宙人に攫われそうになってる子供みたいっすね」

「丸尾くんもその宇宙人の一人だからね、二百一センチ」


本当に壁のようだ。ミドルブロッカーの方が集合すると本っ当に威圧感がすごい。バレーの選手なんて身長も平々凡々な私にとってはみんな揃って背が高いと思ってしまう。日向さんだって星海さんだって夜久さんだって私からすれば背は高い。というかあの三人もバレー界で考えたらとても低いと言われてしまうのかもしれないけど、平均身長で言えば低いのうちには入らない。

ここの世界の基準がバグりまくっているだけだ。そのバグった基準の中でも、やっぱりこのポジションは桁違いだと思う。


「……何これ、捕食シーン?」

「誰が餌ですか」


練習終わりのストレッチや片付けも全て終えたのか、支度を終えた角名さんがスマホを片手に戻ってくる。

誰が餌だと思わず反論したものの、二メートルを超えた三人に囲まれている私は、角名さんが言う通りに獰猛な肉食動物に簡単に仕留められてしまうその辺の草食動物と変わりはないだろう。


「確かにこれが弱肉強食の野生界だったらミョウジさんはもうこの世にいないな」

「白馬さん、たまにそうやって恐ろしくて残酷なこと言うのなんなんですか」

「人間でよかったっすね〜、動物だったら食べてたかも」

「丸尾もあんまり怖がらせるなよ」

「百沢さん〜……!!」


ここのポジションはみんな個性的でバラバラな性格をしているのに、なぜかこれで結構バランスが取れていると思う。

なんだかんやで話しやすい人たちが揃っているから、連絡事項をまとめた新たなプリントを置きにきただけだというのに随分と長居をしてしまった。


「これメールとかにならないの?」

「宮さんにもこの前同じこと言われました」

「うわ」

「角名さんが宮さんと同じこと言っちゃったのすごい顔しながら嫌がってましたって後で言っておきますね」

「面倒なことになるからいいよ」

「そうなることを望んでいるのでしっかり言っておきます」


チッとわざとらしい舌打ちをされる。態度悪いなと思いながら睨み返してみたら、同じように態度悪いなという感じに睨み返された。

こっわ。角名さんが睨み効かせるとマジで怖いから。他のみんなは獰猛ででっかい肉食動物かもしれないけど、角名さんは鋭い視線で夜間に獲物を狙う猛禽類みたいだ。


「角名さんとミョウジさんって仲良いっすよね」

「でしょ」

「そんなことないです」


俺たちの仲じゃんなんて言ってくる角名さんは、ニヤニヤと嫌みたらしい挑発的な笑みを浮かべていて、ちょっとどころかだいぶむかつく。あまり揶揄いすぎないでくださいよと言ってくれる百沢さんは、やはりこのミドルブロッカー陣の中での私の癒しだ。


――――――――――――


やるべきことを全てこなして、よくやく帰り支度に取り掛かる。こう見えて私も結構仕事量が多いから一日が過ぎるのがとても早い。

選手の方々はみんな一生懸命練習に励んでいる。練習、なんて簡単に言えるものではないのかもしれない。雑務をこなしているのでずっと体育館にいるわけではないけれど、たまに顔を出すと凄まじい熱気と迫力を感じる。まるで公式戦でも行なっているかのような。

でも、それも当たり前か。選手にとってこの合宿に呼ばれているということがどれだけ光栄で、そしてどれだけ過酷なのか、私なんかには想像がつかない。

もしもこの世界が弱肉強食の世界だったら、と先ほど白馬さんは言ったけど、人間の世界にも、きちんと残酷なまでにその世界は広がっている。

この世の中には趣味や部活を含め、年齢問わずたくさんのバレーボールをしている人がいる。その中でも突出した強さを身につけ、数少ないプロへの切符を掴み、さらに数ある中でV1のチームに所属する実力を持ち、それだけでは終わらず日本代表にも選ばれている。

しかし、代表に選ばれただけではまだ試合に出られるとは限らない。

みんな和気藹々としているし、同じポジションの人たちはやはり仲も良いように見える。でも、コートの中では話は別だ。みんなで手を繋いで仲良くなんてことはできない。それをしたら負けるという決意と、少しの油断も抱いてはならないという覚悟が、たった一瞬体育館を覗く私にもびしびしと伝わってくる。

この世の中でこんなにも残酷なまでに弱肉強食を成り立たせているのは、自分が想像できる範囲の中にはスポーツの世界しかない。そんな場所に、彼らは常にいる。

だから私は選手の事は一人残らず尊敬している。騒がしくて手がつけられなくて、黒尾さんに泣きつくぐらいに辛い日もある。角名さんにはいつも悩まされている。でも、それでも誰一人残らず尊敬しているのだ。


「最近帰りによく会うな」

「星海さん、お疲れ様です」


選手は一人一人尊敬している。そして、星海さんについては別ベクトルの方向にも尊敬している。というかファンだから。仕方がない。ファンだから。本当に。


「どうした?疲れてんのか?」

「いえっ!全然そんなことは!」


疲れは日々マックスだ。でも、今はこうして星海さんと話せているから、そんなこと忘れてしまうくらいに回復している。力が全身にみなぎってくるのがハッキリとわかるから恐ろしい。


「私なんかより皆さんの方が疲れているはずですし」


私は私で確かに忙しくはしているが、それでも毎日ものすごい運動をこなしている選手の方々とは比べ物にならない。私なんかが音を上げてはいけないなと思うほど、選手は常に体を動かし戦っている。


「どっちの方が楽とかはないから、ゆっくり休め」


クマできてんぞ。自らの特徴的な目の下をポンポンと指の腹で叩くようにしてそう言った星海さんに、キュンとときめいてしまったのはもうどうしようもない。ファンはどんな時もどんな姿でも、なかなか見ることができない仕草を目に入れるとおかしくなってしまう生き物なのである。

それに優しさに触れる機会がここ最近なんだか少なかったから、余計に感動する。憧れの人から言ってもらえるとなるとより嬉しい。つまり今の私はもう、この上なくハッピーだ。クマができていることを指摘されるのはとても恥ずかしいけど。明日からコンシーラーもっとしっかり塗って隠す。決めた。


「星海さんってとっても優しいですね」

「そんな事は……あるかもしれねーな」

「はい、優しいです」


こういう時、わかりやすく得意げな表情になるところも好きだ。


「ありがとうございました。お疲れ様です、また明日」


そう言ってその場を離れた。練習もとうに終わっているのだ。星海さんも早く戻ってゆっくりと休んだ方が良い。疲労は日を追うごとに蓄積されているから、どんなに彼らがプロであっても怪我や事故に繋がりやすい。


「ミョウジさん」


少し大きな声で名前を呼ばれ、振り返る。「じゃーなー!」と大きく手を振った星海さんは満面の笑みを浮かべていた。

気がつけばもう外は真っ暗になっていて、春の強い風が音を立てて吹き荒んでいる。日中はだいぶ暖かさが増してきたけど、それでも夜はまだまだ冷える。こういう風の強い日はなおさら。

室内で温められて火照っていた両頬に、冷えた空気が熱を下げるように触れていく。軽く目を瞑り、ふぅと短い息を一度吐いて、ゆっくりと目をあけた。

……名前を、呼ばれた。あんなに大きな声で。めっちゃ笑ってた。わざわざ別れの挨拶を言うためだけに呼び止めて、満面の笑顔を作ってくれた。やばい、にやける。嬉しい。完全に崩壊している頬の筋肉をなんとか周りにバレないように駅までの道を走らなきゃならない。カツカツと鳴り響く足音があまりにも軽快で、自分の浮かれように笑えてしまう。

このままこの日常――終わらないで!!

と、黒尾さんに辞めたいと泣きついた過去もすっかりと忘れてそんなことを願った。私の元気の源は、やっぱりいつも星海さんだ。


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