「知多さん、これ先ほど言っていた件のです」
「ありがとうございます。助かります」
「…………」
「……なんですか?」
「……いえ」
噛み締めている。ここにいてこんなにも静かに、心穏やかに会話――と言っても業務連絡だけど、それはまぁいい、とにかくこんなにも普通にやりとりを終えることが出来る喜びを噛み締めているのだ。
「ミョウジさん、これさっき貰ったんですけど良かったら食べませんか」
「え、いいんですか?」
「俺甘いの苦手だから。どうぞ」
「ありがとうございます〜!」
物静かで、優しくて、しつこくもなく人の弱みを握って楽しみもしない。知多さんの株は日に日に増していくばかりだ。
受け取ったもなかを大切に抱えて、ルンルンと弾むように廊下を進む。自分ではあまり買わないけど、なぜか人からはよくもらうものランキング、私調べではかなり上位のもなか。買わないけど好きなのでありがたい。
随分嬉しそうだなぁとすれ違いざまに声をかけてくれたソコロフさんに、元気に「はい!」と答え、今日は何事もなく一日を終えられそうだと安堵の息を吐いたところで、前方に見えた見慣れた姿にキィっと床が鳴る程の勢いで立ち止まった。
「お、ミョウジさんもう帰るのか?」
「はいっ」
「気をつけて帰れよ」
「っはい!」
片手をあげ爽やかに去っていく後ろ姿を見送る。その場に立ち尽くしたまま、足元から競り上がってくるゾワゾワとした高揚感をググッと全身で感じながら、唇を噛み締めてこの幸せの余韻に浸った。
やった!やった!と鎮まりきらない心を躍らせ、デスクの荷物をまとめ素早く会社を飛び出す。こんっなにも幸福な日はあるだろうか。誰にも邪魔されず一日が終わるというのはなんと素晴らしいことか。そしてそんな素晴らしい一日を、星海さんとの会話で終われるなんて……!先程の後ろ姿を思い浮かべながら、緩む口元を隠すこともなくスキップをするように歩く。
「ミョウジさん」
その声にピタッと足を止めた。飛び立てそうな勢いで舞い上がっていた気持ちが瞬時に冷静になる。もう一度、静かに呼ばれた名前に覚悟を決めてゆっくりと後ろを振り返った。
「どうしたそんなに固まって。なんか驚かせちゃった?」
「古森さん……一人ですか?」
「一人って訳じゃないけど。たぶんあともう少しで来ると思うよ」
その言葉にグッと手を握り締めた。表情が固くならないようにと意識をしながら「何か私に用ですか」と聞いてみる。もうすぐ来るその人が誰だかわからないからには、なるべく早くこの場を立ち去りたい。
「別に用とかじゃないんだけどさ、それ、付けっぱなしだから。いいのかなーって」
トントンと自身の胸元を指で叩きながら、そう指摘してきた古森さん。自分のそこを確認する。すると、そこには堂々と社員証がぶら下がったままだった。
「わ、大変……!」
「全然気づいてなさそうだったし、そのまま帰ったら恥ずかしいだろうなーって思ってさ」
「本当です、ありがとうございました!」
「良かった良かった。じゃあ気をつけて帰んなよー」
ひらひらと手を振る古森さんに頭を下げると、後ろから小さく彼の名前を呼ぶ声がした。慌てて頭を上げてその方向へと体を向ける。深々とマスクをつけた佐久早さんは、いつも通りの様子で無言のままペコっと僅かに頭を下げた。
「古森さんが待ってたの、佐久早さんだったんですね」
ホッとしたように息を吐いた私に眉を寄せた佐久早さんは、不思議そうな顔をして私の方を見る。すみません、こっちの話ですと慌てて手を振って、それではともう一度頭を下げてその場を後にした。
そうだよ。古森さんといえば第一に佐久早さんじゃないか。可能性が少しでもあると途端に警戒してしまう癖がついてしまったけれど、ただの杞憂だった。あの二人も優しくてしっかりしているから安心する。佐久早さんとはまだあまり話した事がないので、たまに二人きりになってしまうと少しだけ気まずくなったりはするけれど、それでも恐怖心や嫌悪感は全く感じない。
そういえば、今日はこの前SNSで話題になっていたお菓子の新作の発売日だ。それを思い出し、ちょうど目の前にあったコンビニへ軽い足取りで入っていく。一直線にお菓子コーナーへと向かってみると、新発売と大きく書かれたそれがたくさん積み上がっていた。
その中の一つを手に取って、パッケージを確認する。こんなコンビニのお菓子でワクワクしているなんて、一体どこの小学生だと笑われてしまいそうだ。そのままレジへと持って行った。レジを担当してくれているお兄さんはハキハキと明るい好青年で、それさえも私の気分をさらに良いものへと上げてくれる。
この季節ならまだ肉まんも売っているし、久しぶりに食べちゃうのもいいかもな。なんて余所見をしていると、店員さんから金額が伝えられた。それにハイと答えて財布の中から千円札を二枚抜き取った所で、ふと違和感を覚える。
……お菓子一個のはずなのに、どうして会計が二千円を超えるのか。
疑問に思って確認してみれば、私が持ってきたお菓子の隣にスマホの充電ケーブルが置かれているではないか。どこかで手違いで紛れ込んでしまったのだろうか。「すみません、これ間違えてしまったので外してもらっても良いですか」そう伝えると、その私の言葉に被さるように「いや大丈夫です。それで合ってるんで」と頭上から聞き慣れた声がした。
「すみません止めちゃって。ほら、早く会計しなよ。お兄さん待ってんじゃん」
「……言いたい事たくさんたくさんあるんですけど、これは角名さんが置いたんですか」
「そう。線切れたかなんかで使えなくなったから新しいの買いにきた」
「そうですか。じゃあこれは自分で買ってくださいね」
「俺今財布持ってないんだよね」
「なんでそれでコンビニ来たんですか!?」
本当に手ぶららしい角名さんは、「お礼はちゃんとするから、よろしく」なんて言って笑いかけてくる。その笑顔も言葉も何もかもが信じられない。というかお礼なんていう怪しいものはいらないから、この金を後日返してくれ。
後ろに人が並んでいなかったからと、ありがたいことに私たちの事を急かそうとはしなかったレジのお兄さんも、さすがに少し気まずそうにしている。このままではお兄さんにとても迷惑がかかるし大変申し訳ない。なのでとりあえずモヤモヤとしながらも全額支払った。このケーブル随分高いなと思ったら、ちゃっかり純正のやつを選んでやがる。
少しイラッとしながらコンビニを出て、購入したそれを突き出すように彼に渡す。角名さんは私の態度には何も言わずにそれを受け取り、「お礼にこれ送っとくね」と言いながらスマホを操作しだした。それと同時に私のスマホが震える。確認してみると、某コーヒーチェーン店の七百円分のドリンクチケットが送られてきていた。
「わ、これは地味に嬉しい。ありがとうございます!」
「どういたしまして。じゃあ、気をつけてね」
「はい!……いや、いやいや流されませんって!残りの千三百円もちゃんと返してくださいね!?」
「そんなに何杯も飲むの?あれ高いのだと一杯五百キロカロリーくらいあるって噂だけど」
「何で全額ドリンクチケットにしようとしてるんですか!?さっきのは嬉しかったですけど、そんなにその店には頻繁には行かないので普通に現金で返してください!」
私のその主張に小さく息を吐いて「仕方ないなぁ。じゃあそれはまた後日」と、そう言って彼は片手を上げた。買ったのはこっちなのに何が仕方ないなのかが私にはわからないが、後日でも何でも返してくれるのならば特に問題はない。
「あー……そうだ、俺もそれ買うように頼まれてたんだった」
「それ?あっ、この新発売のですか?」
「そう。丸尾が行くならついでに買ってこいってうるさかったんだよ」
やれやれといった感じで店内へと再び向かった角名さんは、そのまま自動ドアの向こうへと消えて行った。
これ、私はこのまま帰っていいのかな?今のうちに帰った方が良いよね?そう思いながら恐る恐る後退る。別に走って逃げたところでわざわざ追いかけては来ないと思うけど、何をしでかすかわからない彼への警戒心はそう簡単に解けないのだ。
数歩下がり何もないことを確認して、意を決して後ろを向いた。そしてツカツカと足早にそこを後に……しようと、思ったところで、今の彼が財布を持っていないことをフと思い出した。
いやいや、だから何なんだ。コンビニに行くのに財布を持たずに来た角名さんが悪いんじゃないか。こっちはケーブルまで買ってあげたのだ。しかも純正の。新作のお菓子が食べられることを楽しみに待っているであろう丸尾くんのことを思うと、少しだけ心は痛む。けれど全ては角名さんが悪いのだから、私は気にしなくて良い。
――はずなのに!!!!
気づけば再びコンビニへと足を踏み入れていた。馬鹿だ。馬鹿だ私は。角名さんの事はこれっっっぽっちも気にしてないしどうでもいいけれど、期待して待っていたのに買ってきてもらえなかったなんて丸尾くんが可哀想だ。だから行くのだ。
そんな言い訳をしながら、レジで会計をする角名さんのところへ向かう。何をしてるんだあの人は。財布を持ってないことをレジで思い出して、ここまで来てやっぱ買えませんなんて言われたら、店員のお兄さんが困ってしまうじゃないか。
「角名さん!」
財布持ってないんでしょう、それくらい代わりに私が払いますよ。そう言おうとしたら彼の手元から何とも愉快な音が鳴り響いた。聞き覚えがあるその音。彼のスマホ画面には、電子マネーの支払い画面が表示されている。
「あ、来ちゃったんだ」
「…………」
購入した商品を持ち、こちらへと向かってくる彼は何食わぬ顔で「ここだと邪魔だから店から出た方が良くない?」と言って、私を置いてスタスタと外へと出て行く。じわじわと込み上げるイラつきを何とか抑えながら、勢いよく振り返って大股で彼の元へと向かった。
「財布なくても支払えるんじゃないですか!!」
「今はキャッシュレスの時代だしね」
「ムカつく!!」
「わざわざ戻ってきてくれてありがとう。ほんと優しいよね」
「煽ってるようにしか聞こえないんですけど!」
「酷いな。心からそう思ってるのに」
たぶん、これ以上話していてもイライラが募っていくだけだ。もうこの話題は終了して、さっさと帰って、さっき私が支払った分は後日きっちり請求しよう。
「……もう帰るの?」
「帰りますよ!!」
眉間に皺を寄せながら、怒りを隠すことなくそう叫んで歩き出した。人混みを掻き分け、やっとのことでたどり着いた改札を抜ける。どうにか心を落ち着けようと深呼吸をしながらホームへの階段を登る。するとスマホが震えたのがわかった。乗車列の一番後ろに並んでカバンの中からそれを取り出し確認する。来ていたのはSNSの更新通知だった。
誰の、とは、言わずもがな星海さんのものだ。急いで開いて内容を見る。『丸尾がくれた』という短い文章と一枚の写真。そこに写っていたのは、先程購入した今日発売のあのお菓子だった。
角名さんが買って、丸尾くんに渡して、さらにそれを貰ったというものだけれど、私もそれ買いました!これから食べます!なんて思い少し興奮しながら素早くハート部分をタップした。私も買ったことをリプでも送ろうかと思ったけれど、また角名さんにネタにされそうな気がしてそれはやめておいた。
パッと赤く色付いたそのマークに胸を躍らせて、同じ日に同じものを食べられるなんてラッキーだとスマホを胸に当てしみじみと一人喜びを噛み締める。これだけでさっきのイライラなんてもう全部吹き飛んでしまった。さすが星海さんだ。大好き。一生推します。
そんな風にふわふわと心を羽ばたかせていたら再度通知音がした。また星海さんかもしれない。慌てて確認すると、そこに表示されていたのは期待していた人物の名前ではなく、つい先程私の心を掻き乱しまくっていたあの人のものだった。
「……なんなんだもう!」
続々と届くそれに顔を歪ませながら恐る恐る内容を確認する。某コーヒーチェーン店の五百円分のドリンクチケットが二枚と、三百円分のフードチケット。合計千三百円。さっき届いた七百円分のチケットと合わせれば、先ほど私が彼の代わりに購入したケーブルと同じ値段になる。
同額、ちゃんと返してくれたけど!!けど!!最初の一回分は嬉しかったけど、そんなに頻繁には行かないから残りは後日現金で返してくれってさっきちゃんと言ったじゃん!!そう心の中で叫びながら、自宅の最寄駅より一つ手前の栄えている駅で降り、某コーヒーチェーン店へと駆け込んだ。
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