アイラブユー
「月が綺麗ですね」
「なに、愛してるって?」
「をそうやって言うやつ、なんか寒くない?」
「びっくりするほど冷たいんですけどこの人」
倫太郎に夢を見る方が負けだなんてわかっちゃいるけど、この中秋の名月とかいう一年でも一番月を見上げる人が多いだろうこの日にそんなことを言う人が彼以外にいるのだろうか。
二人並んで空を見上げて、真っ暗な中で輝く月を見ながら頬を染めて、恥ずかしそうに自分の気持ちを遠回りに伝える。風流で日本人らしいそれを全否定してくれた。夏目漱石に謝ってほしい。
「というか、普通の感想として月が綺麗だって言いたい時に、勝手にアイラブユーだと捉えられても困るよね。さっきみたいに」
「最後の一言余計」
秋、といえどもはじまったばかりで、薄着で外にいてもまだ寒いとは思わない。茹だるような夏の暑さが過ぎ去った、少し乾燥しはじめた軽い空気がサァッと音を立てて流れていく。
誰もいない道。私と、隣を歩く倫太郎と、真上に浮かぶ月だけがこの夜の静けさを堪能していた。
「じゃあ倫太郎だったらどうやって訳すの?」
その問いに足を止めた倫太郎は音もなく振り返って、感情の読みづらい瞳に私を映した。
「余計なことをすると物事は歪むんだよ」
「何それ」
「ただ月を見た感想を告げただけなのに愛してるって言ったって思われちゃうみたいに」
「もう、さっきはごめんって」
口を尖らせた私に僅かに口角をあげ、倫太郎が三日月のように目を細める。
「面倒くさいのは嫌いなんだ」
「えー」
「早く帰ろ」
歩き出した倫太郎に、「さっきの答えは」と慌てて追いつきながら聞いてみるけど、上手く躱されて教えてはもらえなかった。
マンションについて、鍵を開けて、静まり返った部屋に明かりをつける。窓の外に見える月はそれでも輝きを失わず綺麗にそこに佇んでいた。
「あ、どうしよう明日の朝食買い忘れた」
「食パンでよければ練習帰り買ってきておいたけど」
「え、ほんと?助かる、ありがとう」
お風呂を沸かしにいった倫太郎を横目で見送って、帰ってきてから畳もうと思っていた洗濯物を確認するともう全て畳み終わっていた。彼がやってくれたのだろうか。やることがなくなってしまった。そう思いながらフと見た窓の外には、月がぽっかりと浮かんでいる。
面倒臭いのは嫌いだと彼は言った。私の仕事が終わるまでに時間があるから、その間にシャワーをして着替えてから行くと言った彼は、その時に洗濯物を畳んでパンも買っておいてくれたんだろう。朝、独り言のようにこぼした私の買って帰らなくちゃという言葉を覚えていて、わざわざ。練習帰りの疲れた体で。
できれば何もしたくないなんて普段から言っているような人が、極端に面倒くさがるこの人が、誰かと一緒に生活をして支え合ってってなかなか出来ない事なんじゃないだろうか。
「ねぇ、倫太郎ってさ、もしかしなくても私のこと愛してるでしょ」
戻ってきた彼に確信を得たようにそう聞いてみる。呆れた顔とかされんのかな、いつもみたいに馬鹿じゃないのって。そう思っていたけれど、倫太郎は一瞬動きを止めて私にしっかりと視線を合わせたあと、僅かに見開いた月のような瞳を三日月の形にした。
「今更気づいたの?」
月が綺麗ですねとも、アイラブユーとも、愛してるとも口には出してくれないけれど、彼の行動はいつも真っ直ぐ歪むことはない。
「言葉にしてくれないとわからないよ」
「でもわかってくれてんじゃん」
「私だからわかってあげたの」
ぐいっと彼のシャツの裾を引っ張って、私と同じようにしゃがませる。そのまま抱きつけば同じようにしっかりと背中に腕を回してくれた。細められた瞳に視線を合わせて、幸せを閉じ込めるように目を瞑った。
窓の外では今この瞬間も、大きな大きな満月が、綺麗にそこで輝き続けている。
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