山口忠と巡り合う


◎2022年11月企画


ラーメン屋の味付けたまごは格別に美味しい。トロッとしてる半熟の絶妙な感じとか、程よく染み込んだあの味は家ではなかなか真似できない。でも頼もうとすると百円かかる。卵に。味をつけた卵に。もちろんそれほどの美味しさだし、十分な価値はあるのかもしれない。けれどなんとなく追加することを悩む。百円で崩れ落ちる生活をしているわけではない。でも、頼むかどうかを迷ってしまうこの感じ、経験のある人も多いのではないだろうか。

十月に入って本格的に肌寒くなってきた。仕事帰りの疲れた体が求めるのは、膨大なエネルギーをすぐに生んでくれそうな味の濃い食べ物。そして、体を芯から温めてくれるものである。

つまり、ラーメンだ。

食券を買い店員に渡し、狭い店内のカウンター席に座った。漂う油の濃い香りが空腹を刺激する。数分待ち、出されたそれを受け取った。若い女が一人仕事帰りにラーメンかよ、なんて言ってくる人もたまにいるが、そんな意見は関係ない。ここ最近特に楽しみのなかった私にとっては、今この瞬間が至福の時だ。

麺が伸びないうちに食べてしまおう。なんでも出来立てが一番美味しい。写真を撮ることもせず箸を手に取った。一人ラーメンはストーリーには載せなくても良い。先週あたりから食べたいと思い続けていたラーメンにやっとありつけた嬉しさで気がつくのが遅れたが、数口食べてしまったところで、頼んではいないはずの味付けたまごが乗っていることに気がついた。


「あの、すみません、私たまご頼んでないんですけど気がつかないで食べ始めちゃって……料金お支払いします」

「えー?ああ本当だ、こっちのミスだからいいよ、食べな」


どんぶりを覗き込んだ大将がガハハと豪快に笑った。いいのか、百円もするのに。ラッキーだ。

美味しかったと一人余韻に浸りながら手を合わせ、店を出ようとした時のことだった。隣の隣に座っていたお兄さんと大将が何やら話しこんでいる。大丈夫です、大丈夫です、と体の前で手を振る客と、申し訳ないと謝るお店の人。どうしたんだろうと耳をすませば、お兄さんのラーメンを間違えて他の客に渡してしまったので、差額を返金するかしないかという話だった。返金して貰えばいいのに。そう思いながら鞄を持ち、背もたれにかけていた上着を手に持った時に、お兄さんが「たまごくらい大丈夫なので」と言ったのが耳に入った。


「……それ間違えられたのって私ですか?」


二人の反応からして多分ビンゴだ。私の胃袋に収まった味付けたまごはもう戻せない。食べたのは私で、しかもそれに後悔はしていないので私がお兄さんに百円払えばいい。そう言うとお兄さんは「本当に大丈夫なんで」と逃げるように店内から出て行った。

顔付きから勝手に想像したよりも背が高くてびっくりする。いや、それよりもだ。のんびりとしている暇はない。律儀に去り際に「ごちそうさまでした」と言って出ていったその人の後を慌てて追いかける。


「あの!!待って!!」


私の声に驚きながら振り返ったその人は、数メートル先で足を止めた。握りしめた百円玉を差し出しながら、「すみません、私呑気に食べちゃって」と謝りお兄さんの正面に立つ。


「いや、あれはあなたじゃなくて店側のミスだし、俺も言い出さなかったのが悪いので全然」

「いやいや、ダメですよ」

「いやいやいや、気にしてないので本当」

「いやいやいやいや、ラーメンにプラスして味付けたまごも頼んじゃおうって結構ワクワクしながら食券買うじゃないですか、ダメですって絶対」

「ええ……俺はそこまで……まぁ、そういう気持ちもなくはないかもしれないですけど」

「ほら!!」


ずいっと差し出した昭和後期製造の少し汚れた百円玉。ラッキーだなんて思って食べちゃったけど、私の代わりに誰かが代金を払っているとなると、それはラッキーでもなんでもない。知り合いだったらご馳走様ですとありがたくもらうが、知らない人となるとそうはいかなくなる。


「お店の人から受け取らなかったのにあなたから受け取るわけにはいかないので」

「……なんで受け取らなかったんですか」

「食べてないけどお店はたまご一個出しちゃったわけだし、別にいいかなって」

「……っ良い人!」

「そんなことないですよ」


なので大丈夫です。気持ちだけ受け取っておきます。そう言って、お兄さんは最後まで受け取らずに帰っていった。

たかが百円、されど百円だ。その程度で崩れる生活はしていないとはいえ、赤の他人のたまご代を払うのは、百円だと言われたってそんなに快く出来るかと言われたら、難しいと思う。

上着を抱えたまま店内を飛び出してしまったから、晒された手先からどんどん冷えていく。

お兄さん、性格は確実に優しいを通り越して聖人だったけれど、見た目からして優しい人だったな。そばかすが特徴的で。ああいう人はやっぱ内から滲み出る何かがあるんだろうか。良かったのかな本当に、百円もするのに。そんなことを考えながら自宅までの道を歩いた。

少し前までなんでもなかったはずの木々が一気に色づき始めた十一月。仙台の冬は冷える。まだ秋かもしれないけれど、もう寒さは立派に冬のそれと同じだ。今日も履き慣れたパンプスを鳴らして、着慣れたスーツを身に纏い、先月までは羽織っていなかったコートで全身を覆い隠し歩く。

寒い。お腹も空いた。帰ってから何かを作る気力は今日はもうないけれど、なるべく早めに帰宅はしたい。そうなれば選択肢はやはり一つしかないだろう。

はいお待ち、と今日も元気の良い大将から受け取った熱々のラーメン。今日は百円課金して味玉付きにした。ああ美味しそう、早く食べたい。スープの匂いを嗅ぐだけで食欲がこれでもかというほどに湧いてくる。

両手を合わせ、いただきますと小さな声で呟いた。その短い言葉は、全く同じタイミングで全く同じことを発した誰かによって重なって響いた。


「……あ、あの時の味玉のお兄さんだ!」


隣に座っていたのは先月のあの事件のお兄さんだった。その特徴的なそばかすは、私の記憶に今もしっかりと残っている。驚いたように僅かに目を見開いてこちらを見た。彼も私に気がついたらしく、人の良い笑顔を浮かべる。


「偶然、ですね」

「そうですね」


約一ヶ月間が空いているとはいえ、二回連続で一人仕事帰りにラーメンを食べているところに遭遇されるのはなんとなく気まずい。というか、特に理由もなくなんか恥ずかしい。そんなことを考えながら、自身の手元のどんぶりに浮かぶ味玉を見て、ふと気づいたことがあった。


「すみません、追加注文良いですか」


食券の代わりに、急いで財布から取り出した百円玉を振り向いた大将に差し出した。平成初期製造の少し古くなった百円玉。これで買えるのは、あるだけで僅かに心が躍るトッピング。


「このお兄さんのところに味玉一つ」

「え!」

「お兄さん今日は何もトッピング頼んでないじゃないですか、先月のお返しです」

「え、ええ〜。ありがとうございます、すみません」


申し訳なさそうにするお兄さんに臆することなく話しかける。人見知りをせず、相手が誰でもグイグイいくのは私の良いところであり、場合によっては悪いところでもあると友人たちからは昔から言われてきた。


「お兄さんはよく来るんですか?ここのお店」

「この間来たのが初めてで、まだ今日が二回目です」

「私もです私もです!すっごい偶然ですね!ここじゃないどこかでもまたばったり会ったりして」

「なんだか本当に会いそうだなぁ」


というか、お兄さんって呼ばれるのなんだか恥ずかしいです。そう言って彼は頬をかいた。見る限り年は近そうだけど、確かに言われてみればお兄さんと本人に向かって呼び続けるのは私もなんだか気恥ずかしい。


「私、ミョウジっていいます。お兄さんは?」

「山口です」


見るからに優しくて、親しみやすそうな笑みを浮かべた。彼は追加された味玉を、見た目に反して結構豪快に頬張った後、美味しいですと柔らかく笑った。


「先月山口さんが奢ってくれた味玉も美味しかったですよ」


彼の周りはなんだか、半熟の黄身がトロッととろけ出るような、あたたかくてゆったりとした時間が流れているような感じがする。

すでに冬みたいな空気をしている十一月の仙台で、この空間だけが春みたいだ。濃い油の香りのする、食欲のそそる春。うーん、なんだか例えが悪いのか、あまり惹かれないような。意味わかんないし。そう心の中で一人ツッコミを入れながら、誰にもバレないようにひっそりと笑った。

これが、この先私たちの間に何度も訪れることになる偶然の、初めてと二回目の出来事だった。


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