自己暗示


角名倫太郎太郎という男が嫌いだ。あまり他人のことを嫌う事はないけれど、それでもはっきりと角名倫太郎のことは嫌いだと思っている。


「俺は先輩のこと好きだけど」


そう言って人を試すように口角を上げるその態とらしい笑顔も、なんて返せばいいのかわからなくて黙り込む私を見て面白そうにする意地の悪いところも全部、嫌いだ。


「先輩はどうしたら俺のこと好きになってくれんの?」


困ったように眉を下げて、角名くんは私を視線で縫い付けるようにジッと見つめた。ジリジリと暑い階段の踊り場。図書室へと向かうここは、昼休みだというのにあまり人が通らない。じわじわと肌を湿らせる嫌な汗がうざったらしい。彼の周りだけ気温が低いかのように錯覚するほど、角名くんは涼しげな表情で佇んでいる。

一歩彼が踏み出すたび、私は逃げるように一歩下がる。駆け出してしまいたい感情にかられるのに、そんな大胆な行動が取れるほどの勇気はないし、鈍臭い私が彼からうまく逃げられるとも思わない。ドンっと鈍い音を立てて私の背中が壁にぶつかったのを見て角名くんが薄く笑った。もう下がれないのに、角名くんは構わず一歩一歩と距離を詰める。


「毎回毎回伝えてんのに、何も言ってくれないのは流石に俺も悲しい」

「何で、私なの」

「理由ってそんなに重要?」

「だってっ」

「じゃあ、何で先輩はそんなに俺の事怖がってんの」


そっと喉元に彼の長い指が添えられて、ヒュウっと息が詰まるような音がした。骨を撫でるようにゆっくりと滑るそれは、冷たそうな表情に似合わず恐ろしいほどに熱い。息を飲み込んだことで喉骨が上下して、彼の指が触れている事をさらに実感することになる。唇を噛んだ私に「血出るよ」と優しく微笑んだ。その綺麗な笑顔が逆に私には妖しく映る。理由なんてない。理由なんてないのだ。


「角名くんといると、飲み込まれそうで怖い」


彼が本当は怖くないことなんて知っている。彼のことを嫌っているのは私のただのくだらない防衛本能だ。私の中にある動物的な勘が訴えている。彼を受け入れたらひとたまりもないと。


「本当にそうなるかどうかは、やってみないとわからないじゃん」


グッと少しだけ力を込められ一瞬呼吸が止まった。そのままスルリと指先が移動して輪郭を確かめるように頬を撫でられる。見下ろす瞳が私を捉えて、ぱくぱくと口を動かしたけど声は出なかった。緊張でカサついた私の唇を親指でなぞる。フッと息を吐いて瞳を細めた角名くんは、私の耳元に顔を近づけ一言好きだと囁いた。背中を這い上がるような痒い感覚に身体を硬らせる。

角名くんのことが、嫌いだ。そう思ってないと、この危険な香りのする彼の雰囲気に喰べられて終わってしまう。ぶるりと震えた私を落ち着かせるように耳元でもう一度彼が言葉を発した。普段よりも低く、私にしか響かないくらいの小さな声で。

早く俺の事受け入れてよ。その言葉通りに、彼に心を許してしまったら、一体私はどうなってしまうのだろう。恐怖とともに最近僅かに興味が湧いてしまう事実が、私は何よりも怖かった。

角名倫太郎という男が嫌いだ。私は今日も彼に抱く好奇心が恐怖を超えてしまわないように、自己暗示のように唱え続ける。


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